9.25.2015

安住と放浪

バカみたいに、弛緩した日常だ。酒を飲み、うまい飯をくらい、それで一日が充足しているかのようだ。

かつての私には、よい食事も、よい酒もなかったが、それなりに幸福だった気がする。いや、幸福ではなかったが、神は身近にいた、そのような生活をしていた、と思う。

身ひとつであちこちにぶつかり、よろめき歩くような放浪をしてみたいと思うときがある。あるいは、孤独に読書だけに励む生活を何年かしてみたいと思うこともある。

いずれにせよ、私はある面では成熟してしまった、ということが言えるだろう。私の人生設計は、長いこと、楽して稼ぐことにあったのだが、現実に今楽をして金を稼いでみて、どうもこれで良いとは思えなくなってきた。

成熟した男は、危険と遊戯とを求める――とニーチェは言ったけれども、財をつみあげ、それを喜ぶような精神は、ほとんど腐りきっていると言ってもいいだろう。しかし、熟れることと腐ることは同時に進むのだ。

私は、無軌道に生きていくつもりだった。少なくとも、内面的な自己の要求に対しては、それを母親のような注意深さで見つけてあげるつもりだった。それが、日常の要求・社会的な要求に、しだいに翻弄され、進むべき道もわからなくなってきた。

積み上げるのは難しいけど、放擲するだけなら一瞬でできる。「アシジのフランシスコ」的なタイミングを見計らっている。しばらくはこのままでいいのかもしれないし、あるいはこのままずるずると精神が腐敗していくのかもしれない。

しがない中産階級の会社員として、一生を終えるのは、たまらなく嫌なことだ。しかし、大部分の人は、そうやって死んでいくのだけど……。

人間がもし無限に生きるのであれば、地位を築き上げ財を蓄えることがひとつの目標になるだろう。しかし、人間はいつか死んでしまうものだし、その死がいつ訪れるかもわからない。死の不安は根源的なものだ。人間から切り離せない。それどころか、死の不安ほど人間を人間たらしめる要素もないのだろう。

孤独に本を読む生活を、何年も続けたいものだ。あるいは遠く異境において、異邦人としてぷらぷらしたいものだ。どうやらそれが私の当面の目標ということになりそうだ。しかし、ひとは願望を持ちつつも、やはり日常に飲み込まれ、そこに安住してしまうかもしれない。

2 件のコメント:

  1.  無理せず、ゆったりと生活して、退屈しのぎになる適度な仕事があり、出世や成果に拘らず、何の責任も生ぜず、誰からもある程度距離を置いている。これほど素晴らしいことはないでしょう。確かに究極の孤独とは違うかもしれないが、不満があるということもまた、退屈しのぎにはもってこいの思考ですよ。

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  2. >楽をして金を稼いでみて、どうもこれで良いとは思えなくなってきた。

    楽をして稼ぐのは悪いことではない。稼いだお金をどう使うか、使わないかが問題。大事なのは感性であって、焚火の前でスーパーの刺身(寿司?)を愉しむなんてのが実に贅沢であると思う。フローレン

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