9.26.2015

精神の高貴さ

PCモニターに映る音楽家たちが、自分の同族、同胞であるといういつもの印象は抜け落ちて、代わりに自分に奉仕するある特殊技能人、というふうに見えてきた昨日は、さすがに、こうなったらおしまいだろうと、半笑いしてしまった。

いつもであれば、私は音楽家に共鳴し、そのパトスと忘我の感覚をともに喜ぶのだけど、昨日音楽を聴いていたときには、私は完全な「お客様」になってしまい、本当の意味で良質の音楽を聴くということができなくなっていた。

近頃は俗物じみた性根が染みついてしまって、自分は偉いのだ、成功者なのだ、というふうに、一定の満足を得てしまったように思う、なぜならば、この田舎においては、私は大部分のひとびとよりも経済的に成功しているし、また、そこそこの大学を出ているという意味では、出自もまた良いのである。

一生をこの田舎で暮らす人々、またその精神も自由になることを知らず、生まれ、死んでいくようなひとびとが大半である。スマホゲー、テレビ、彼らの精神を堕落させるものは(何もない田舎においても)たくさんある。これは田舎の実情である。

ただ、私は、精神世界を充実させようという人も、とくに理性的に・意識的に行動を統制しようとしない、田舎の朴訥な人々も、どちらが優れているというわけでもないと思う。漁師や、農家をどうしてバカにできるだろう。

私は、たまたま知性的に生きることが運命づけられているのであり、もしそういう性向がなければ、ひとびとは無理をして学を身に着けるよりも、海や山に向かい、各々の労作をして生きていくことが、もっとも幸福であると思う。その幸福を、愚かだとか、無知だとか、指をさして批判するほど私は腐っているわけではない。

主知主義――プラトン(ソクラテス)からカントまでの(アポロン的な)考えは、人々を理性に駆り立てた。理性以外に光明はないのだと、永く西洋の人々に思い込ませた。これによって、司祭のような知的なエリートを、人びとは崇拝した(そういえばニーチェの父も牧師であった)。

同様に、官僚や大学教授が「偉い」とされる時代であり、教授連中も自分のことを「偉い」と思っている社会ではあるけれども、私は農家も、大学教授も、同じように尊重できると思う。

インド哲学にあるように、人間には生まれ持った性向というものがあるのであり、非知性的な人は非知性的に生きるべきだし、知性的な人間は、知性を持つべきだろう。こちらの方が人間を歪めずに、「エミール」にあるように、人間本来の持つ善性を損なうことはないはずである。

知性的なひとびとが、不幸な境遇によってワープアにされその一生を終えたり、あるいは愚昧な人間が知的職業に就いたりすると、これは人類にとっての損失ということになる。例えばろくに論文も書かずに政治競争に没頭している大学教授などそれである。

だから、私は身分制度には反対であるけれども、個人としての性向については、生まれつきのものを認めるべきだと思う。そうして、私自身が知性的に生きねばならぬということも、これは驕りではない。むしろ「せねばらない」という義務感があるのである。

以上のことは、オルテガの言った「精神の貴族主義」と同一の考えである。内田樹がうまく指摘したように、ニーチェの貴族主義とオルテガの貴族主義は違う。ニーチェにとって貴族は「勝ち誇った自己肯定」を持つが、オルテガにとってはそういった自己肯定はむしろ「大衆」の方が持っているのであり、貴族はたえざる自己超越の連続である。したがって、貴族はつねに自己を鑑み、不備があれば厳密にこれを正すという手続きが不可欠になるのである。

そういうわけなので、私も精神的貴族であるので、こうして自己反省しているというわけだ。……自分で言うと、たいへん恥ずかしい表現であるけども。

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