9.03.2015

種族的精神

どちらかと言えば、私は異常者の類である。どちらかと言えば、私は狂気の側にいる。ところで、最近まで気づかなかったことだが、狂気の世界の中では私は凡庸なひとりの人間である。私の人格的特徴は、病的特徴のそのままであり、その典型でもある。

人間は、どうあがいても人間なのである。私は自分を特別な人間だと感じてきた。それというのも、私は先に述べたように異常者だからである。しかし、神経症者を100人集めたとしたら、私はその中に埋もれてしまうだろう。顔かたちは違うにしても、精神構造で言えば、大して他の神経症者と変わりがない。

一匹の猿がいて、自分を猿ではないと思い込んでいたとしたら、私たちはその猿を笑うだろう。人間が自分を神だと思うときもそれと似ている。

私がさして特別な人間でもないということが、灰色の海に沈むような失望でもあるけれど、かえって救いでもある。私の苦しみも、また固有のものではなかった。私だけが苦しんでいるのではなかった。私は、孤独に苦しむ隔絶された個人なのではない。一類型なのである。

私と同様の精神を持つ人間がこの世には五万といて、それぞれがその環境の中で、苦しみ、喜び、生きているのだろう。私を孤独につき落としたのは、まず苦痛であった。私は自分の苦痛を自分だけのものだと思った。他者は私に共感できないから、私を救うことは不可能だと感じた。しかし、「自分の苦痛は自分だけのものだ」と思っている一類型=苦痛の独占者が、人間の一種族として、存在しているのである。

――永遠の世界に憧れているものの心が、世間のものにわかるか

だから、現実世界において友人のひとりもなく、持続しない恋に振り回されてばかりだった私が、こうして心の平安を得ているというのは謎ではない。ひとつに読書などによって私の同族の精神を知ることができるからである。哲学者はまずもって私の同族という気がする。自己の内面に凝り固まって前を向くことのできない精神的特徴は、私と通じるものがある。また、音楽家も私の救いになる。私がこの時代に孤独でないのは、本があり、音楽があるからである。また、このブログも私の精神衛生に大きく寄与していることだろう。

本を知らないとき、私は生身の絶望と孤独と戦っていたように思う。あの時代を考えると今でもぞっとする。ある人間が、不自然に歪められていた。あのときの精神は、醜悪な畸形だった。いまこうして、理性をもって存在することに、少しばかりの感謝の念すらある。

私は永遠に、他者とは相いれないだろうが、私はもう孤独ではないだろう。世界を見渡せば、私のような人間はいくらでもいる。私のような人間は、私のような人間の公表したテクストによって慰められる。書くこととは、ひとつの狂気であり、また狂気の治療における絶対的要請である。精神的なネットワークが、私の同族を、ひとりひとり、救い上げていく。観念の世界では、そうして私の同族は守られているのである。

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