9.30.2015

理性と宗教

とくに最近は書くことがない。フーコーを読みたいと、ずっと思っているが、それに費やす時間がほとんどなく、体力的にも、時間的にも、そういった哲学的な問題を熟慮するような余裕がなくなってきてしまった。

知とは何か、を知りたいと思う。ニーチェはアポロン的な理性主義に対しデュオニソスを持ち込んだ。ニーチェは「神は死んだ」と宣告したがフーコーは「人間は死んだ」とした。つまり近代ヨーロッパの人文主義の否定であり、人間の自由意志の否定ともいえるだろう。

というようなことは、だれでも理解しているレベルなので、もっと調べていきたいと思う、ただその時間がない。

人間が精神的に満足してしまうときに、精神の光が鈍るようだ。というのも、我々が満足してしまうことはありえず、「満足した」と信じることは、誤謬でしかないからである。

この世は苦痛でしかないのだから、我々が目覚めているということは、この苦痛の認識に他ならない。苦痛を認識して、「さらば、もう一度!」となるか。あるいは、「もはや意志しないことが至上なのだ」となるか。

仏教も、キリスト教も、どうも信用することができない昨今である。ニーチェ以降の思想に触れているひとは、この二大宗教をどう捉えているのだろう?人間の哲学を知った人にとって、神(仏)の哲学とは。

我々には、狂気と理性のふたつの教義があったはずである。しかし、現代に残っているのはたまたま理性の教義だけ、ということがありうるのではないか。それは文書が歴史に残るのに対し、音楽は時の風化とともに忘れ去られるのと同じくして。

したがって、キリスト教も仏教も、「理性的に」行われる再解釈が繰り返されるうちに、本来はそのなかに残っていた狂気の要素も、風化し、あるいは排除され、現代に残っている我々が信奉するそれは、ほとんど別物と言ってもいいかもしれない。

この推察は、フーコーの言ってるような言説の持つ「排除」や「禁忌」「分別」とも重なる。例えば本来の聖書に狂気じみた呪いのような文言があったとして、キリスト教が力を持っていく段階で、理性的に「処理される」ということは想像に難くないことである。

例えば、解釈不能な狂気の文言があったとすれば、布教の折に必ず大衆から「これはどういう意味か」と問われるはずである。こういうめんどくさいことは、消してしまえ、初めからないものとしてしまえ、となっても不思議ではない。どのような宗教も、世界に広がっていくうちに、公的な性質をまとううちに、「まともな宗教」へと作り替えられるのだろう。

フーコーの言ったように、知と権力とはまことに切り離せないものである。知が何ら権力と結びつかずに伝播することはふつうあり得ない。何らかの経済的効果を狙っているものである。そういうわけだから、我々がふつう得る知とは、「教えた方が得な知」であり、「教えたくない知」では決してないわけだ。この差異は、「教えやすい知」と「教えづらい知」という差でもある。

そういうわけで、我々はブッダの思想も、キリストの思想も、その「理性」の面しか知ることができない。それは隠蔽ではなく、狂気というのがふつう、時の風化や、布教における経済性に耐えられないためである。私はヨブ記などはかなり「逝っちゃってる」と思うが、しかしそのヨブ記も一見不条理に思えて、理性的に解釈できるという意味では、これは狂気ではない。

宗教が、その狂気の面を得たときに本当の力を持つのかもしれない。私は、オーム真理教などはその線を狙っていたのではないかとひそかに思っている。

また、高野山の密教(=ミトラ教?)なども、狂気の要素がどこかしらにあるはずだと思っている。狂気の奥義とは、秘密のうちにしか伝授されないものであると思う。それは社会的にはタブーであるはずだ。

ある宗教の神話的諸前提が、正教的独断論のきびしい悟性的な目にさらされて、歴史的な出来事の総計として体系化され、人々はおずおずと神話の信ずべきことを弁護しながらも、神話が自然に生きのび生長しつづけることに対しては、ことごとに反抗しはじめるといった時、その宗教は通例生命を持たなくなる。(「悲劇の誕生」ニーチェ)

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