9.05.2015

作品を生みだすこと

コーヒー三杯を飲めば前日のように高揚した錯乱を見せることができる。

散文でも小説でもいいから何かしら作品を作りたいと考えることがある。私は何の影響も世間に及ぼしていない。私は何も金を生み出していない。

それとは反対に、今なにかしらの作品を作るには未成熟すぎるから、知識の修養に努めたい、という気持ちもある。もっと、たくさんのことを学び、智慧を身に着けなければ、本の一冊を書いてもしょうがないだろう。

ところで、世の中にはその「しょうがない」本が溢れかえっている。この程度のモノで出版できるのか?と思うようなもの。でも、そういう類の粗悪品がけっこう売れたりする。世の中はマーケティングがすべてということだろうか。「客」に合わせてしまえば低品質でも売れるというわけだ。

客に合わせた作品といえば今の深夜アニメはほとんどそのような類だと思う。あとは車のデザインとか?ビジネス書……。しかし、こうした類のものは芸術とは言えないだろう。

自分はゲージュツ作品を作るのだ、と思っても、そういうことはまったく金にならない時代だ。そんなことに時間を消費する余裕も体力もない国民だ。この国で何かしようというのなら、Newsweekではなく朝日新聞風でなければならない。

こういう時代にあって、モノづくりに成功した人間はいる。宮崎駿などはその類だと思う。エンターテイメント性を重視し、それなりのイデオロギーも主張するという。彼は日本が嫌いだし東京も嫌悪しているがその日本の東京で仕事をしている。私などは外に逃げようというのだから軟弱だ。

それではどういう作品を作るのですかと問われてもこれはわからない。

こうして散文を書いていくのと一個の凝固物である作品を作り出すのはまったく別の仕事なのだろう。今の散文はまったく無意識的に書くことができる。このように作品を生み出せていけばいいのにと思う。

実際のところ作品(何かしらの影響を与え、何かしらの評価を受けるもの)を生み出すということは、甚大な努力が要求されるものだろう。ところが、何か力が入ってしまえばまったくダメになってしまうのもまた芸術というものである。

そういうわけだから、水が下へ流れていくように、私もある必然の道筋を辿っていくしかない。このことの意味は、私が将来作品を作ることになるのか、あるいは何も生み出すことなく死んでいくのかということは、今の段階で「意志」しようがないし、予測もまた不可能ということだ。



と考えても、そんなことでいいのか、と思ったりする。

1 件のコメント:

  1. 今の感性だからこそ生み出せるものがある。成熟してしまってはダメな場合もある。
    芸術を求めれば金は離れていくと思うので、まず作る目的を明確にすべきだろう。
    とりあえず今すぐ動き始めて、諸々は動きながら考えてみてはどうだろうか?
    なんて…考えてばかりで動けない自分は思うのです。フローレン

    返信削除