9.06.2015

人間が有限であること

美しいものは、独りでないと見えない。

成満に達せるひとの、いかにして、知識の極致なる梵に到達するや、クンティー妃の王子よ、そを、簡潔に、われより聞き知れ。浄心を具え、堅固に己を調御し、音声はじめ、(五官の)対境を抛捨し、貪欲と憎悪擲ち、寂寥の地に拠り、食細く、言語、身体、心を調御し、つねに静慮の実修(ヨーガ)に専念して、離欲に身を託し、我執、暴力、高慢と、欲愛、忿怒、所有を離れ、我欲なく、寂静に帰する人は、梵との冥合に与る。
(「バガヴァッド・ギーター」鎧淳訳)

今日の午前中は気楽に過ごしたが、そのあと一度に急降下して、憂鬱に襲われた。でもまあ、こういうことはよくあることだ。死にたい、とか、自分の何もかもが嫌になって、過去のすべてが間違っているような感覚に襲われることは、人間であればだれでもあるし、それは自然なことだ。

自然であるということは、健康であることではない。不健康と健康の間を行き来することである。

生とは、両極端の中間をつねに揺れ動く動性である――ということを、パスカルが言っていた(と三木清が言っていた)。
人間とはいったい如何なる奇獣であるか。如何なる新柄、如何なる怪物、如何なる渾沌、如何なる矛盾の者、如何なる非凡の者であるかよ。すべてのものの裁判官、愚かな蚯蚓。真理の受託者、曖昧と誤謬との塵捨場。宇宙の栄誉にして屑物。(パスカル)
憂鬱を肯定すること。苦悩を引き受けること。どうしようもなくくだらなく凡俗で画にならない人生であっても、決して否定しないこと。「これが人生であったか!さらばよし、もう一度」。

凡庸なる人と、非凡な人との違い。パスカルによれば、非凡な人は死を直視する人間である。
人間は死、悲惨、無知を癒やすことができなかったので、彼らは、自己を幸福にするためには、それについては何も考えぬことを工夫した。……慰戯は我々を興ぜしめ、そして我々をして知らぬ間に死に達せしめる(同)
いわば、人間が常に苦悩の中にあるという悲惨、真実には到達できないという無知、生が限りあるものだという事実、これらを凡庸な人はいろいろな手段でつつみ隠してしまう。彼らは自分の手で目を覆ってしまうのだ(ハイデガーのいうところのダス・マン)。
凡庸なる魂が何らの困難を見ないところに最も賢なる者が躊躇するのは何に因るのであるか。けだし後者は彼が前者と共に有する自然的なる眼のほかにさらに一双の「他の眼」を具えている。この他の眼は彼には「死の天使」によって与えられるのである。 
凡庸なる魂が安易と満足とにあるところに最も思慮ある者が困惑と戦慄とを感ずるのは何に因るのであるか。けだし優越なる魂は自己の存在を正直に視、素直に問うことを知っているからである。彼の求めるものは人間の究極的なる綜合を与える最後の答である。(「パスカルにおける人間の研究」三木清)
人は死を見つめることによって「他の眼」を得ることができる、と。生は死であり、死は生であるから、生のみによる視点は物事を正しく認識することができない。生をありのままに見ることは、同時に死を見つめることでもある。
「小なる事柄についての人間の敏感と大なる事柄に対する無感覚とはひとつの奇態な顛倒のしるしである」。この顛倒を直きにかえして価値を正しく定めしめるものは死の智慧である。宗教的不安は真理への道である。
ふうん、なるほどねえ。死の智慧か。(しかし、「つまづく」ことは哲学者の必要条件ではあるけれど、それが「優越」なのか?と思ってしまう。つまづいてばかりの人間は非凡であるとしても、「優越なる魂」を持っているのか、これはわからない)

そういえば、森田センセがこんなことを言っていた。

人は自然に帰れば、冬は寒く、病は恐ろしく、不潔は厭わしく、人に対しては羞恥を感じるべきである。人情の本に帰れば、そこに強迫観念があるはずはない。強迫観念は、冬を暖に、夏を冷に感じようという欲望を逞しくするものである。
……不可能を不可能として、それに服従することを正信といい、因果の法則を曲げて不可能を可能にしようとし、我と我が心を欺き、弥縫し、目前の虚偽の安心によって自ら慰めるものが、すなわち迷信である。(「神経質の本態と療法」森田正馬)
人間は、諦めなければならない。我々の生とは、どうしようもなく苦悩に満ちているものだ。幸福は一時的なもので、それはより深い苦悩の前触れでしかない。

森田センセは神経症治療の権威なのだけど、禅僧めいたことを言うのでおもしろい。結局、この病気は正しく人生を導かれないと治らないようだ。正しく生きるとはどういうことか。それは、わからない。「わかる」ようなものでもないのだろう。

こうして読書をしていると、それだけで生が豊かになるという気がするから、仕事も何もかもほおっておいて、読書と、軽い農作業と、ツーリングと、何か書いたり、楽器をいじったりという生活をしたいと思うときがある。しかし、そういう生活は長くは持たないだろう。

私の人生設計はまったく目途がついていないが、まあ、私はもういろいろと諦めているから、水が流れるように、私も運命に逆らうことは辞めようと思う。風が吹けば、倒れ、雨が降れば、濡れ、人が私を笑えば、私も笑う。人が泣いていれば、私も泣く。それだけのことだ。

2 件のコメント:

  1.  芥川も太宰もゴッホも自殺したが、つまるところ、金銭問題と社会の中での立ち位置が定まらなかったことが原因だろう。彼らは社会でつまづいたばかりに、諦めて流されることが許されなかった人達であり、諦めることができるなら余程その方が良かったに違いない。

    返信削除
  2. >風が吹けば、倒れ、雨が降れば、濡れ、人が私を笑えば、私も笑う。人が泣いていれば、私も泣く。それだけのことだ。
    これ好き!サウイフモノニワタシモナリタイ。フローレン

    返信削除