9.08.2015

努力と神性

何も語ることはないし、書くこともない。サルトルのあの本のクライマックスは、こうある。「記すことなし。私は実存した」と。

まあ現実にはただ昨日の疲れが残っていてぼんやりとして思考がままならないだけなのだ。

英語とフランス語を勉強したいと思う。私がこの人は知性的だ、と思うような人は、たいてい仏語や独語ができる。英語なんて当たり前で、英字新聞はおろか、文学作品まで原文で読むという。

日常の仕事は私を地べたに引きずり落とす。学生という身分が懐かしい。私は一労働者でしかなく、一労働者としての義務と困難があり、まずいことに一労働者としての喜びがある。

なんでもできると思っていた若い時代は通り過ぎて、私の脂のついた下腹部と、薄くなった前髪とが、私の凡庸さを示している。私は惨めな一個の人間であることを、この半年で学んだ。

現実の私は惨めだが宗教的不安はあまりない。人生の悲惨につまづくことは少ない。私はインド哲学のあの奥義をなんとなく信じている。つまり「汝はそれ(梵)なり」である。

我々はすでにして究極的真理=最高神なのである……と考えてしまえば、この大したことのない日常も、なんとか受容することができる。我々はときに神になろうと願うが、その努力こそが神聖を退けるのである。なぜなら我々はすでに神であるので……。

努力とは、たいていそのような結果を生みだす。しかし、社会的成功は努力なしでは不可能だ。自己を社会構造という外部環境に適合させることは、自己を歪めることである。そうだから、努力するときに本来持っていた神聖が引きはがされる。

もっとも、彼らは社会的経済的には成功する。それは経済的成功の必要条件だから。しかし、彼らは努力によって、すでに自分を失っている。成功はなおまずい。神にはもう戻れなくなってしまった。神は金も地位も何も必要としないからである。そういうわけだから、社会的成功者は強迫的に無職者や低所得者を迫害するのである。

人間は自然に置かれたときに、何を志向するかを自分で知っておかねばならない。一本の棒をまっすぐ立て、それがどの方向に倒れるかということである。適正とはそのようなものである。適正とは、運命に近しいものである。孤独に文章を書くことが向いている人がいれば、人々と語らい集団を導くことが向いている人がいる。それを努力によって歪めてはならない。

ともあれ、英語の勉強は続けておきたいと思う。英文学を原文で読むのが目標だ。

3 件のコメント:

  1. 黒崎さんの考えに興味があります。仮に孤独に文章を書くのが適正かつ経済的成功がしたいのであれば、本来すべき努力とは「孤独に文章を書いて経済的成功を得る」のがよいというのが黒崎さんの考えでしょうか?本来持っていた神聖( = 「自己」という解釈)を保持した上で経済的成功を得るのは不可能なのか可能なのか、あるいは経済的成功をしたい考える時点で自己は持ち合わせていないのかという点です。
    私は自己を歪めなければ経済的成功が出来ないという因果は成立していないので可能だと思いますが。

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  2. 孤独に文章を書く人間は、私の理解によれば、経済的な富を望みません。何が彼を孤独とペンに追いやったかを考える必要があります。ですからその問いは不可能です。金稼ぎに適正がある人もいるでしょうが、彼は富を得ることに適性があるのであって、それ以外ではありません。

    「自己を歪めなければ経済的成功が出来ない」これはおっしゃるとおりです。成立しません。単純に考えて、宝くじ一枚で富を得ることも可能ですから(微妙なテンションで記事を書いたので、筆が滑りました)。もっとも、経済的成功を望む人間は、大部分が歪められていると私は考えています。まあ資本主義的なイデオロギーといったところです。

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  3. ・孤独に文章を書く人間は、本質的なところで経済的成功をまず望まない。
    ・経済的成功を望む人間は、多くは自己や適正を社会環境 = 資本主義的イデオロギーに適合させているはず。
    と分けて考えるという解釈で、富を得ることに適正のあった人間は自己を歪めることなく経済的成功も可能ではあるという見解もできる訳ですね。自然に置かれた時に何を志向するかが判らなければ、本当に適正だったのかは不明瞭になりますが。
    ご回答ありがとうございました。

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