9.27.2015

work

そういうわけで、昨日は精神の貴族主義について語ってみたのだが、自分が特別優れた頭脳や理性、思考力を持っているとはいまいち考えづらい。私の知能は凡庸であり、天才とはいいがたいし、会話はまずもって苦手、文章を書くことについても長く苦手であった。現実に私は、およそ社会に対して何ら有効な能力を持たない。

もしも私の在ることに何らかの価値をつけることができるとすれば、その異常性と、バカ正直さということになるだろう、私が見ている世界は、他の誰かが見ている世界と「違う」ということ、さらにそれをありのままに「語る」ということ、このふたつが私の仕事ということになる。

私は、ひとより何かを知っているというわけでもないし、計算や記憶力に優れているとも言い難い、とくに記憶力については大部分の人よりだいぶ悪いという自覚がある(酒のせいか?)。私はかつて狂気の世界に苦しんでいた、今でも半分は狂気の人間であるし、今はまともな生活を送れているから、ある程度健常でもある。私は異人=狂人でありながら、そうした生の実感に対して、このように表現もできるというわけだ。半狂半常、あちらとこちらを行き来するということ。

例えば、この世のどれだけの人間が、「自分は精神的な貴族である」と表現できるか、を考えてみると、そのようなことを(ブログでも)大っぴらに語れる人間というのは少数であると思う。それは「貴族」という階級社会のシンボルに対する嫌悪・忌避だったりするわけだけども、われわれは(そういう障壁を乗りこえて)自分のことを「貴族」であるとは、なかなか言表しにくいものである。

そういうわけだから、例えば社会における無能者、精神病院の檻のなかにある狂人が「私は貴族です」と言うとき、叫ぶわけでもなく、静かに語り掛けるとき、私たちは何らかの効果を感じると思う。それは狂人の戯言として無視するか、あるいは真実として見るか、人それぞれだけれども、ともあれその「効果」こそ、私の仕事のひとつということになる。

2 件のコメント:

  1. 人間に優劣なんてないのなら、なにも謙遜する必要はないよ。ただ好きなように、自由に苦しめばいいと思う。ブログを楽しみにしてる人がいて、そんなんが「効果」の現れなんだろうね。フローレン

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  2. 半狂半常であるのは事実だとしたら恣意的にどちらかに歩み寄るのでなく、用意された二元論や形式を一度去り、あなたはあなた自身を深く掘ってゆく。なにがあなたの絶対性、唯一性なのか深く沈潜して自身の歴史性を振り返ってみる。そうすることが即、「表現」であるのだと僕は感じる。「創作」はガラスの向こうの〈客観〉に閉じ込められていた自分を知り、そこから自身を奪回する行為でもある。そして扉を開らき、その奥に抑圧された真の人間的悲哀と怒りを感じ、光の存在を指し示すことでもあるのだろう。
    「創作」は悟性的次元の単なる哲学的文章表現ではない。構想力を駆使する作品は、創作することによって悟性よりもより深い深度で自身を知る行為であるはず。悟性ではそれを知ることはできない。あなたはそれをあなた自身の身をもって体験せねばならない。

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