10.01.2015

漏出

最近の自分には笑ってしまうことが多く……、結局、惨めな一個の人間であるのに、それから逃れて、何か人間以上のものになろうとして、必死になることは、不自然な営みである。

自分ということが、これまで最大のテーマだったけども、自分に対する執着は最近なくなってきた。ただ内面世界を充実させることが、人生において重要だと考えるけども、ある日悟ったように、私の極めて個人的な領域、私的な領域さえも、深く掘り下げてゆけば、その根底には社会的関係が否応なく存在しているのである。

つまり個人から社会が誕生したのではなく、社会から個人が誕生したのだ、社会は我々の子どもではなく、母親なのである。そうだから、ある個人は社会と無縁であることはできない。社会は個人と無縁であることもできるが。

自己は他者であり、他者は自己であるというこの循環、つまり私の中で「個人」は死んだのであり、同時に「自由」もまた死んだというわけである。これは西洋個人主義、とか、西洋合理主義との訣別でもある。というか、もっとも根本的な意味での西洋のイデア思想との決別というか。

結局あらゆる哲学がプラトンの注釈でしかないのだが、それは近代までの話で、十数世紀続いたこの伝統はニーチェやフーコーによって打ち砕かれている。そうして調和的なアポロンから陶酔的なデュオニソスの台頭する時代である。ニーチェあるいはその子どもたちによって哲学の「永い眠り」は打ち破られたのだけど、ではそうしたイデアがなくなった今我々にとって知とは?

知と権力の関係。フーコーは知と権力は結びついて切り離せないとする。西洋的世界、主知主義的な世界においては知はだれしもが求めるべきものだった。

現実には西洋価値観の行き届いたこの国においても高い知性を持つ人間はわずかであり、大部分は痴愚化している。メンデルの法則や地動説は当初だれにも認められなかった。真実が退けられるその事象も、知のはたらきによるものだということ。99%の大衆には質の悪い情報や知識しか入らないように「なっている」。知のもつ本来の性質、ある実行力を持った一個の要素としての「知」、これを解題してみたいものだと思う。

われわれはなぜ知るべきことしか知ることができないのか、という問題。

といいつつも、やっぱり時間がないので読書することができないのだが。

今日もコーヒーを飲んでこれを打ちこんでいる。どうやら午後から雨のようなので車で出勤することにした。ここ最近の気候は私好みである。

貯金が増える一方で、大して消費をしていない。しかし、なんだかんだで、月10万円以上は消費しているようだ。「支出額は収入額まで膨張する」は正しいかもしれない。

世界を知りたいと願う一方でそんなめんどうなことはしないでもいいという当然の判断をする自分がある。金と自由があればあれをしたい、と考えることは可能でも、いざ金と自由が手に入ればひとの判断は簡単に変わるものだ。願望と実現は違うということ。ともあれ、海外放浪や海外移住はまだ当面の目標ではある。

自分の見識を社会に広く訴えるという仕事もあるはずだが私の知ることなどまだ小さいアリのようなものでしかないと思う。アリが声高に叫んだところでだれにも響くはずがない。何らかの方法があるはずだと模索中。

こうして独り友人もなく過ごしていると精神的に委縮していくものかもしれない。孤独は大切だが他者との関係がなければそもそも孤独になりようがない。まあ疎外感を味わうためにも友人だの恋人を探してみようかとも思う。そんな暇と体力があれば……。

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