10.12.2015

外縁より

国家がどうのと考えることは子供じみている。私が述べていることは、正しいのかもしれないし、また、誤っているのかもしれないが、結局は無責任な子どもの戯言に過ぎず、どうでもいいという気がしている。

私には、山河があればそれでいい、という風に思う。世界は、解きがたく錯綜している、私の理解を越えている。一個の人間でさえ、私の手に負えない。そういうわけだから、私が自然のなかに隠遁を望むとしてもそれは無理のないことである。

金さえあれば、乾燥した、だれもいない広々とした平原に家を建てて、それでもう畑暮らしで生きていくのだが。我々はみな、金や必要に縛られて生きているわけだ。

我々のだれしもが卑俗な生活の必要に追われているのであり、それから解放されたはずの貴族階級でもまた、サロンの人間関係に思い煩い、富や名誉といったことに思考を支配されてしまう。

不要なことは述べるべきではない、わからないことを、わかったように口にすべきではない、とは思うが、私がもしも自己を滅却してある表出の媒介となること、これを辞めたら、つまり「理性的」になってしまったら、もはや何も価値のあるものは産めないという気がする。

私は一個の人間である、それは人間のうちでも、変質的なものかもしれない。あるいは、私こそが真の人間であるのかもしれない。この時代に、真の人間などわずかかもしれないからだ。

私が外縁に位置し、境界人であることは、世界から阻害されてることをただ意味するだけではなく、世界の外側に片足をつっ込んでいるということになる。もちろん、私はそれがこれまで苦痛だったけども。

片や狂気、片や理性というふうに、揺れ動くけども、なにも私だけが狂気を独り占めしているわけではない。凡者であっても、狂気にときおり戯れに触れることはある。

最近は、私も、そういった凡者に近づこうとしている気がする。私のこれまで記述してきたことは、一厘の価値もないように思えるから。もっとも私は長くそれを望んでいた。私は自分の狂気が死ぬほど嫌だった。

不幸と、陶酔と。幸福と、退屈と。この間で揺れ動くところの或る者である。

まあ最近同じことばかり管巻いている気がする。今日もバイクで出かける。最近、ほんとうにバイクが楽しい。

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