10.16.2015

労働者の夢

成功とは失敗であり、生きることは死ぬことであるなら、もう執着する必要もないということだ。

なんだか慢性的に疲れてしまって、生活に倦む日が続いている、金はあるけど、それだけでは虚しい。

もっとも、私は数年の間金を稼ぎ、それから学問の道を歩もうと思っている。学問の道というのは、別に大学に再入学するわけではなくって、読書をしたり、音楽をしたり、放浪したりというだけなのだが、とにかくそういう密に生きる、真に生きるような期間を自分のために設けたいと思っている。

あるいは大学に入ってもいいという気がする、とにかく自由に活動できるのは無職であるよりは学生なので。しかしこの年齢で10代の連中のなかに飛び込むのは死ぬほど嫌だと思う。それなら孤独に読書すべきか。

とにかくこの賃金労働者としての生活は生を台無しにしているように思える。私は今日も労働時間の半分を終えた、3/4だ、あと10%だ、という風に、時間を計っている。このような生活は悲惨である。私はできるだけ労働時間を忘却しようとする。そうすれば、眠っているときと同じように、時間が早く進むからである。

毎日が同じようなことの繰り返しだが、労働者というのはそういうものだろうか?私は働きだしてちょうど半年だけれども(もう5年くらい働いたような気分だ)、もうこの退屈な日常はおしまいにしたいと思うのは、まことに、自然なことではないだろうか?人間にとって、自然な反応ではないだろうか?

世間のひとびとは、どのようにして自分の生涯にあきらめをつけて生きているのだろう。どのきっかけで、「私にはこの仕事が分相応だ」と思うのだろうか?だれでも初めは、仕事は、嫌なはずである。次第に順応してくるのだろうか。

もっとも、私も最近までは順応し始めていた。労働者としての喜びも、侮りがたいものだ。しかし、出勤するたびに、あと何か月、何年とこれを繰り返すのか、とつねに自問している。

私は、たまたま、仕事に向いていない人間だった、少なくとも、私はだれかに使われることには向いていないようだ。自意識が強すぎる。つまり私は自分が自分の主人でありたいと思うので、私の主人となろうとする人間がいると、本能的に反発してしまうのである。

一年か二年か前に、私は文筆家になろうと、文章家になろうとした。というか、なる、と宣言した。たしかあの宣言では、私が三十才になるまでに達成すべし、とされていた。そのようになれれば、本当に良いと思う。

私の労働者としての生活が夢に終わって、人間(じんかん)を離れた真な静謐のなかで、読書をし、文章を産み、ときに産まない、という本当の生活が送れるようであれば、それが望みである。

もっとも、文章家になったとしても、現実はそのようにはいかないだろうということはわかる。生きることは、結局のところ、苦痛に満ちている。この不味いパンでも、手放してしまえば、それが惜しくなるものだ。

1 件のコメント:

  1.  不味いパンが得られないことは悲しいことだが、たくさんの不味いパンがあることはその2倍悲しい。人間にとって社会的地位や名声は、付随的なもので、死の意識同様、本質的には裸のつるりとした肌に手足が生えた生き物にすぎない。孤独は本来悲しいことではなく、むしろ付随的なものに目が曇らされて、大切なものを見失うほうが悲しいことなのではないか。心からの愛情や、安らぎを。

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