10.19.2015

ジジェクがひとは夢のなかでイデオロギーから解放されると書いている。文字通り受け取れるとすれば興味深い話である。つまりラカンのテーゼ「夢と現実の対立において空想は現実の側にある」ということである。

そうならネットのスピリチュアル系の人々が夢の啓示を受ける(そして現実に適応する)ということも理解できる。私はスピリチュアル系をバカにしてはいない。ときには並々ならぬ知性を感じることがあるから。

哲学とスピリチュアルは深いところで繋がっている気がする。行き着くところは同じなのかもしれない。


私の職場に新しく入った21歳の女は、趣味がニコニコ生放送なのだという。彼女はニコ生で歌ったり踊ったりする。彼女は言う、「私は仲間たちと夢を追いかけている」と、もっともこれはニュアンスとしてだから、もっと控えめだが。

そういう、「夢」というものを聴いたときに、私はぞっとする思いであった。

私はオタク趣味は嫌いだ。空疎という気がするからだ。与えられるものを喜んでいるだけにしか見えないからだ。「与えられた趣味」という印象だからだ。

オタクは単なる消費者という批判があるが、これは半分誤っている。消費しているのは、フィギュアやDVDなどの商品ではなくって、「趣味」という商品である。つまり、何もない人間に、一個の趣味人の資格を与えるもの。

私にとって、声優オタクとか、アニメオタクはそういう生き物に見える。

私が彼女の発言にぞっとしたのは、彼女の「夢」もまた「与えられたもの」、商品であるというふうに見えたからだ。つまり彼女は自由に主体的にそういった夢を追及していると思っているが、私には彼女に主体性があるようには見えないのだ。

もっとも、私はオタク趣味ばかりを嫌悪しているわけではない。私が嫌いな「夢」はもっとたくさんある。例えば芸能界に入ることを夢見るとか、人脈を築き上げて金をたくさん稼ぐとか、そういうロールモデル的な夢を追いかけている人びとは、私は唾棄すべきものだと思っている。

ひとは自由に独創的に振る舞っているように見えて、実は市場経済の歯車の一個に落ち着いていたりする。

集団というのはおそろしいもので、みながそういう「夢」を追いかけているように振る舞うと、何かそれが教条のようなものになってしまう。それは信仰によって正当化される。実のところ、ある商品と信仰は変わるところはない。

だから人間は、まずもって世俗の関係を断ち切り、孤独に自己と向き合って、本当に自分がしたいことを見つめなければならない。

私にも趣味はある。例えば、オフロードバイクで山を登ったり、楽器で独奏してみたりする。また、読書もいちおう趣味と言っていいだろう。そういった趣味と、オタク趣味は根本的に違うのである。

と言い切ってみたが、根拠に乏しい。私は、オタク趣味が商品的であるということで批判するけども、それと楽器やバイクの何が違うのか……?これはうまく説明できないのだが。

ともあれ私は彼女が「夢」と語ったときにぞっとする思いがした。もっとも、21歳なんてそういう年なのだろう。私が21歳のときなんて、本当に目の開ききっていない子どもだったから、人のことなどとやかく言える立場にない。

1 件のコメント:

  1.  夢が薄っぺらな自己承認欲求の表出でなく、「仲間」や「絆」といった空々しく刹那的で残酷な繋がりでなく、自己が「アイドル」や「2次元」といった抽象的な偶像でなくなるのはどういう時なのだろうか。夏目漱石はイギリス留学中に「文学」というものを極めるために日々苦悩しノイローゼになり、志半ばで帰国した。その時の思いが「私の個人主義」という形でまとめられているが、借り物でなく、自らの確固たる立脚点を見出すために相当の苦悩と空虚な苦しみを抱え込んだことが書かれている。文芸批評や文学研究とは結局権威のある研究者の言説を繋ぎ併せて自らの主張を整合性のある批評として造形するようなところがあり、その「借り物」の限界に夏目漱石も苦しんだのではなかろうか。

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