10.02.2015

個人を問い直す

私は自分に執着することを辞めた。西洋的な、理想から離れることにした。そうして、自己と他者との境界を漏出させた。論理的、アポロン的な理想主義から離れることになった。

「私はいつか死ぬ」という論理的帰結は、たいへん西洋的であると思う、ハイデガーが認めたように、それは西洋思想の原動力であっただろう。ダス・マン=大衆は、自分がいつか死ぬということを知らない。死への自覚に欠けるから、のほほんと無思考に、流され、生きていけるというわけだ。

私はハイデガーの考えとは逆に、この「大衆」は、かえって評価すべきものであると最近は思っている。「私はいつか死ぬ」という考えは、あくまで論理的帰結である。これは、他者と自己と厳密に切り離し、死は自分だけのものであり、生もまたそうであるという前提に拠る。

ところでこの「個人」という概念がもしも迷妄であるとしたらどうだろう。人々は実のところ個人に切り離せるものでないとしたら?一匹のイワシが、群れの中のイワシ以上ではないように。そうなれば、「私だけの死」や「私だけの生」というものも、ありえなくなる。

構造主義によれば、我々は群れの中のイワシに過ぎないということになる。そもそも、「一個の切り離された個人」という概念はどこからやってきたのだろうか?

フーコーはこの近代以降のあらゆる思想のひな形となる支配的な思想、自由意志的な思想を人文主義として批判した。人間が自由であり、主体的に行動できるという迷妄。フーコーに言わせれば実のところ、人間はつねに権力の監視にさらされ(しかも我々は権力の姿を見ることができない=パノプティコン)、日常は事細かに管理されているというわけだ。

ニーチェは「個人とはまことに近代の産物である」としたが、我々の歴史において、我々が「個人」であった時代はほとんど僅かである。それは、フロイトがある民族を研究していて、彼らには「社会」があっても「個人」が存在しないことに驚愕した事実からもわかることだ。

結局のところ、我々が「個人」であった方が、何らかの目的に適うという、合目的的であるという、それだけのことなのだろう。まず第一に、「個人」が否定されるべきものであれば、民主主義というのは正立しないし、法の支配も機能せず、自由主義もまた迷妄ということになる。しかし明白な事実として、法治・民主・自由こそ現代世界の支配的なイデオロギーなのである。

陰謀論風に言えば、ある支配勢力が、大衆の力を奪うためにそうしていると考えることもできるし、そういう明白な意図はなくて、西洋キリスト=プラトン思想のヘゲモニックな浸潤と考えることもできる。

ともあれ我々は個人というものを問い直さなければならないと思う。我々は個人として思考し個人として行動していると考えている。主体というものを信じている。しかしそれが信ずるに値するものなのか?


1 件のコメント:

  1. 私は結局、個人であるということと、個を無くす「無我」というのは似ているのではないかと思えるのです。バベルの塔の崩壊により、人間は言葉を分かたれたという描写や、仏教における解脱や輪廻の輪から抜け出すというのも、結局は完全なる自由とは執着や欲望から自分を孤立させるということになるのではないか、と考えます。つまり、自分はイワシの一匹だと納得するのではなく、何故イワシの一匹なのかと考えるところからスタートするのではないのか、などと私見を述べて申し訳ない。ちなみに、よくフローレンとコメントする人がいるので、ムーミンを見なおすと、スナフキンに憧れるミニマリストというのがいるんですね。

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