10.21.2015

脳機能障害者は何を夢見るか

また相変わらず生半可な知識で哲学を悟ったような気になるという取り組みをしている。この取り組みは大変おもしろく飽くことがない。

私は壮大な誤謬をおかす。根本的で破滅的な論理的な破綻、あるいは事実誤認を露呈する。私があまりにも当然のように誤りを犯すので、ひとは私を単なるバカだと思うに違いないし、おせっかいな人は一から私の誤りを正そうとするだろう。

私は絶対的に正しい、という確信が揺らぎつつある昨今である。しかし揺らいでいるのは私の認識だけではない。そもそもこの世に正しい認識などないのではないか?まあ、最近はそういった相対主義的な傾向に感化されているわけだ。

この世の到達可能な真理とはあるのか。ないのではないか。あるのはイデオロギーだけではないのか?イデオロギーを玉ねぎに例えたのはアルチュセールだったか。つまり、真理(前認識的なもの)を求めてイデオロギーを剥がしていくと、そこには「なにもない」。

最近町内会やPTAのような日本的な組織のもつ働きの原因が「イデオロギー」であることをしった。イデオロギーとはすなわち「私はそれを知らないが、それをやっている」というようなことである(とジジェクは言っている)。PTAや町内会はまさにそういった事象の端的な例である。

彼らは何も知らないが、ゴミ捨場の管理をする。その職務を怠る地域の住民を、苛め抜くことさえする。もちろん、ゴミ捨場は公共物だし、ゴミ捨て場の管理やゴミ回収は行政の義務である。

論理的には大半の町内会など不要だし、そもそも何の権限も持たない任意団体なのである。しかし、それが力を持っている。町内会のひとびとには、確信がある。何も知らないが――ときには、住民を引越させるほどの力を持つ。これが、私にはイデオロギーの端的な例に思えた。

また、イデオロギーのはたらき。騒音に対する無関心。

確かに、騒音は存在する。私はスマホのアプリの騒音計で測る。「人間が不快に感じる騒音レベル」と出る。しかし、周囲のひとびとは無関心だ。「車の騒音がうるさくないですか。窓を閉めましょう」。しかし、「言われてみればうるさいねえ」で、あとは無関心だ。

こういった例が続くと、私だけが真の人間であり、他は何か調子の狂った病人だと思うようになっても仕方ないだろう。しかし、彼らもまた知らないのである。つまり、日常を平然と受け取っているから、何の摩擦もなく日常を享受しているから、騒音に慣れ切ってしまっている。

イデオロギーとは、日常に対し摩擦がなくなり、「慣れ切った」状態なのかもしれない。つまり実際的、現実的な人々は、みなイデオロギーの虜ということか。

私は、なんとなくイデオロギーの玉ねぎの例がわかるという気がする。つまり、我々はイデオロギーなしでは現実を認識することが不可能なのである。我々は認識する前に信じなくてはならないのであり(つまり、世界は世界である、と)、そうして信じることは誤謬なのであり、その誤謬を正当化する緩衝材がイデオロギーなのである……。

だから、我々の認識はすべて誤っているのだが、しかし信じることが不可能となれば、我々にとって世界は霧散してしまう。我々が生きるということは、つねに誤謬であるということなのだ。

私の言いたいことは、認識の過程でイデオロギーがその情報をフィルタリングして補正するのではなくて、イデオロギーを土台として認識が行われるということである。

ここで生理学的な話になるが、やはり「脳が情報削減装置である」というある生理学者の話が、私には信じるに値するという気がする。あらゆる臓器が生存と生殖という目的のために存在するように、脳もまた生存を志向する。それがゆえに、我々は脳のはたらきによって、正しい認識ができないとも言えるだろう。

現代の脳科学は心理学のようにエセ科学的な要素が否めないのだけど、これから脳科学が正しく進展してゆけば、われわれは脳を何か神のように扱うことを辞めるだろうと思う。脳は我々が神の仲間ではなく、単なる動物であることを示す象徴に過ぎなくなるだろう。脳は忌々しい獣じみた産物(たとえば少女にとっての排せつ物のようなもの)に転落するだろう。

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