10.03.2015

青春のおわり

私個人のなかの出来事として、西洋思想の限界を感じてきたので、東洋思想の勉強をしてみようと思っている。そんなわけで、図書館にいき、岩波文庫の「論語」と「老子」を借りてきた。ついでに、ラーゲルクヴィストの「巫女」も衝動借り。

最近は、ロマン主義的な憂鬱がなくなって、ある種の軽やかさを感じている。私はひとつに留まり、緻密な作業を行うよりも、体を動かし、技能を身に着けるということに喜びを見出している。(例えば、バイクでの河原遊び)

自分でもわからなかったことだが、最近では私の神経症的な傾向は少しずつ軽快しているようだ。以前であれば、騒音に対して我慢ならず、家の中であればイヤホンでホワイトノイズを流しながら、射撃用のイヤーマフをつけるのが標準的な生活であったが、ここしばらくは、そういった狂気的な偏執は私から離れて、少なくともイヤーマフはあまり使う機会はなくなった。

同時に離れていったものがある、それは音楽である。私はこの田舎に越してきて、思うまま楽器の練習をするつもりだった。学生時代は、毎日1~2時間は費やしていたこの習慣は、こちらにきてから30分になり、しだいに毎日というわけにもいかなくなった。

いろいろな原因がある、例えば仕事で疲れているからでもあるし、音楽仲間と離れてしまい、バンド活動でのライブの見込みがない、という事情もある。生楽器ではなく電子楽器になったという理由も大きいだろう。

ただ、私の生活の中で音楽的な要求が消えていっていることと、いくらか「生きやすく」なっていることとは同じことなのだろう。芸術は生の絶望、というかニヒリズムの底の底で、初めて輝くものだからである。肉薄した生と、芸術は密接に結びついている。

科学も、ロゴスも、生の目的とはなりはしない。だからソクラテスは晩年音楽を習得する必要にかられたというわけだ。

人間が生そのものを問うほどの絶望に陥ったときに必要なものは、論理ではないことは明白である。憂鬱なときに「悩む必要はない、なぜなら――」などと言われたところで、症状が悪化するのと同じである。そういうときに救いになるのは芸術あるいは宗教である。

私は少し健康になったけども、健康であるということは生を希薄化していることに他ならない。そのことを感じる。あるいは、私は元からまともなのかもしれない。青春がもっとも苦しい季節であることは、考えてみれば当たり前である。そうであれば、青春のときに悩むこともなく笑っているあの連中こそが病気なのである。

ともあれ、私の青春は終わった(私が天才であれば、また青春が再来するかもしれないが)。最近、髪がよく抜けるのだ。私は苦しみの時代を終えた。次に待っているのは何だろうか。

2 件のコメント:

  1. また再来するであろう青春から一時的にでも抜け出し、バイクで河原遊びなどを楽しんでいる姿は、とても健康的で、なんだかこちらまで嬉しくなるよ。フローレン

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  2. 科学や論理はすべて悟性の働きによります。人間は自身をも悟性のみによって理解していますが、本当の人間は悟性を越えてゆきます。大衆はまさに悟性によってのみ自身と世界を理解し、それがすべてだと思い込んでいます。しかし、その認識は自身や世界それ自体ではないのです。悟性によって得た知識こそすべてだという虚妄、そこに危険が生じるのです。(我々の生活も奇妙な合理主義が支配的になってきています)
    日常生活にもいわば世界の裂け目があります。裂け目から目を背け、回避することもできます。しかし、反対に踏み込むことも可能です。悟性=科学技術の造り上げた社会システムは、あなたに〈裂け目〉を回避するための手段を提供しています。そして、人間を交換可能な単なる歯車に―高性能か低性能かは別として―変えてしまうのです。大衆はそういった世界観の内に生きていることも忘れてはなりません。そして、人間の価値を知らず知らずのうちに貶めています。彼らはまったく「無思考」なのです。
    目的を持たない科学技術を我々が手にしてしまった以上、大衆は危険であり、手放しで肯定されるべき存在ではないと思います。(ナチスのアイヒマンの例を参照してください)

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