10.08.2015

私と日本国家

あれほど毛嫌いしていたファシズムを「受容」しつつある自分に驚いている。私の性格はどうも、変わったらしい。

私は日本という国を長い間嫌いだった。できそこないの半端国だと感じていた。そこに住んでいる人々は、呪術やまやかしを信じているような土人であり、私とまったく相容れない秩序に従って生きている人々だと感じた。

私は自分を文明的な人物だと思っていた。私は法律や、自由や、民主主義の概念を理解していたから。正しく機能した国家とは、聡き大衆によって、自由と平等が保障された国家であると認識していた。

しかし、民主主義は成功したことがあるのだろうか。私にはどうもそのようには思えない。民主主義はつねに機能不全だった。

私は、よき統治とは、君主制か寡頭制にあると今では感じている。だから、他国の民主化運動などを見ると鼻白む。彼らは子供じみた幻想を追い求めているようにしか見えないからだ(ところで、私は日本を民主主義だとは一切考えなくなった。私はすでにそのことを受容している。)

私が日本のことを嫌いだったのは、端的に、私のことを排斥するからである。「論理的」には正しい私をこの社会が排除するからである。

例えばサービス残業に異を唱える社員は「法的には正しい」のだが、結果として排除される。同じようなことが私の人生には数知れずあった。そのせいで、私はまったく理解できないおとぎ話の世界にいるかのようだった。なぜ正しいはずの私が疎んじられ阻害されるのか?

してはいけないことはたくさんあったが、それは見ることができなかった。しかし、周りのひとびとは当たり前のようにそれを回避し、まるで自由を謳歌しているように見える。私は明言化されない強制力によってしばしば鞭打たれた。そういう理不尽な目にあってきたから、私がこの国を疎んじるようになったとしても無理はないだろう。

では、最近になってどうしてそのような状況を肯定的に捉えることができるようになったか。理不尽さを肯定できるようになったか。それはその「明言化されない強制力」の構造を、理解することができたからである。

それは、日本という国家が成り立つための必要だった。無数にある柱のうちの一本だった。ある個人あるいは集団が私を排除しようとするとき、彼らは私が憎いのではなかった。彼は権力の手によって動かされている。彼は権力の末端として、その機能を果たしたのだ。

そういうわけなので、この国に働く支配、統治、権力などの諸要素を、私は理解した。私が社会的に排除されてきたのは、すなわち、正しいが故だった。私は個人としての論理に従い生きてきた。孤独に自己の要求にしたがって生きる人間だった。このような人間は、権力の影響を受けにくい。したがって、私は国家に楯突くようになる。いわば私は国家反逆者だった。

しかし私が正しいとすれば、国家は間違っているのか?西洋論理であればそうなる。しかし、ここ日本の統治では、国家もまた国体の維持の機能として、正しいことをしたことになる。

私はこのように理解した。個人としての私は常に正しい。そして、正しい個人を排除する国家もまた常に正しいのだと。私個人と、日本国家がある以上、私が排除されることは、水と油が分離するくらい、自然なことであった。

私がこの国の支配構造を肯定するようになったのは、それだけの理由である。国家は自然であり、私もまた自然であった。それに「気づいた」だけである。

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