10.06.2015

孤独のおわり

十分な生活、潤沢な生活を送っていれば、ひとはもう考える必要などなくなる。中程度の収入と、中程度の支出さえあれば、人は鋭敏な神経を持つ必要はない。

「君主は民に腹いっぱい食べさせろ。そうすれば、厄介な賢者はいなくなる。」と老子が言っていた。そうして、孔子はこうも言う。「君子は良い家に住むことも贅沢なものを食べることもない」と。

最近自分の生活の誤りに気付いてきた。つまり、自分はいい環境に住み贅沢なものを食べている。私の生活の変化が、私の精神に影響を与えていると考えることは、自然のことだ。精神は切り離せるものではなく、生活のそこかしこにあるものだ。

弛緩した日々にあれば、人生は意義を失う。かえって深い苦しみと絶望のなかに光があるものだ。私が求めてきたものは、ただ最大効率で富を得るということに終始していたと思う。たしかに、人は金のために働くのだけど、それだけなのか。

金は必要だし、ある程度の資産があれば、人は金の執着から離れられる。だから、我々は貧困を避けねばならないし、また十分にある資産をもっと増やそうなどとは思わないことが必要だ。そうすれば、もっと重要なことを考える余裕ができる――と、古代ギリシャのひとびとは考えた。

人生の意義を問い直したく思う。それは数年先では遅すぎると考える。とにかく私に必要なのは、自由な時間、学問をしたり、旅をする時間なのだけど、精神世界の浮遊も、地理的な浮遊も、日常の必要にしばられている以上は不可能だ。

あるいは、不可能だと思い込んでいるだけなんかもしれない?少なくとも、18時に仕事が終わるのだし、そこから酒を飲みさえしなければ、一日は豊かに使えるのだ。

最近の私が極めて弛緩しておりもう「自己を省みようとしない」ような状況にあるのだがその居心地よさを感じるとともに、こんなことは間違っている、と思うことがある。しかし健常な人間とはつねに自己に対し漠然とした確信のようなものを持っているのだろう。

私の青春が終わったのかもしれないし、私の神経症的な性格がようやく治療に向かっていると言えるのかもしれない。私は治療されつつあるのか。田舎のゆっくりとした空気と孤独が、私を治療した。あるいはやはり年齢とともに自然寛解か。私と同じ病気の人は、年をとれば楽になる、と言っていたけど。

さて、治療された次はどうすればよいのか。私は治療されたが悪魔も天使もいない人間世界に落ち込んだといえるのかもしれない。ユング派の逸話?
ふたりの永遠の少年タイプが、フロイト派とユング派の分析治療をたがいに別々に受けてみた。
やがて、再会したふたりはおたがいの経過について会話する。フロイト派の治療を受けた青年は、すっかり社会に適応し始め、自分の幼児性も克服し順調にいきつつあるという。これからどうするのかと尋ねると、いずれお金をかせいで結婚するつもりだ。と言う。
ひきかえ、ユング派の治療を受けていた青年はさっぱり変化がみられない。未だに方向が見えない。
しかしフロイト派の治療を受けていた青年は、こう言う。
「なんてことだ ! 分析家たちは悪魔も追い払ってくれたけれど、一緒にぼくのなかの天使まで追い払ってしまった!

自分が健常人であるという感覚は、10年以上得ることができなかったから、今少しそれを感じるときは、不思議な気持ちになる。考えてみれば、この病気になる前、小学生の頃などはこういった感覚だった。

自分がもはや絶対の孤独ではなく、その苦しみや喜びも他者と「共有」しなければいけない。私が軽蔑してきた「大衆」と融和しなければならない。自分だけの喜びも、悲しみもないのだ。私の激烈な孤独の期間は終わったのか?さて、私はどうすればよいのか。そればかり問うているけども……。

1 件のコメント:

  1. >「なんてことだ ! 分析家たちは悪魔も追い払ってくれたけれど、一緒にぼくのなかの天使まで追い払ってしまった!」

    と言ったことからもわかるように、完全な健常人になんてなれないから、心配する必要はない。
    恐れずに、楽な方へ進んでみればいいと思うよ。自分は決してなくならないから。フローレン

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