10.07.2015

隷属と自由

とくに観察するに、他者の存在こそが隷従をもたらす唯一の本質的な因子である。人間のみが人間をよく隷従せしめる。(「自由と社会的抑圧」ヴェイユ)

人間に自由意志などなく、あるのは自然意志のみであるとすれば、「あれをしたい」という感情は、ふつう、ただ外部から与えられるだけであるのかもしれない。

ex:テレビCMに騙される人々。

しかし、「騙される人々」は「騙される」ことを意志しているとも言える。この共犯関係は、ある社会的な要求に対する儀礼である。

「社会的な人間である」と扱われるためには、ある能力を示す必要があるというよりも、ある能力の欠如を示さなければならない。

ex:人生の根本的な問題については、無思考であること。

すなわち、人は明日死ぬとなれば、今手をつけている仕事など馬鹿らしくてできなくなる。社会的な人間は、自分のしていることの意味を考えない。与えられた仕事を、黙々とこなすということ。


このように、我々は自由意志を持っていると思っている。西洋人であれば、より一層そう思っていることだろう。しかし実際のところ、我々は「騙されて」いるのであるし、また「騙されたがっている」。我々は確かに意志することができるが、我々に意志できることは、ひどく限られているということ。

「強い信念」「努力」といったものを、よくよく見直さなければならない。というのも、それは大概が内発的な要求というよりも、外部から押しつけられたものだからである。

ex:「努力すれば、富が手に入る」。

なるほど、これは事実かもしれないが、さて富を得ることが果たして重要なのか?

かえって芸術では、努力は慎重に排除しなければならない要素である。ある意志、例えば世間に認められたいとか、あの賞をとりたいとか、あるいは「良い作品を生みだしたい」という意志までが、逆に作品を損なうことは、よくあることである。

よき芸術は、生のありのままの姿を表出しているものである。それは、外的な要求に歪められなかったものであるから、美しい。というのも、外的な要求に歪められた醜い諸産物などは、世間にこれでもかというほど溢れかえっているからである。

我々の生は、社会の権力によって歪められることがありうる。そういうわけだから、人間には孤独になり、自己の声に耳を傾けることが重要なのだろう。だから一個の人間が成熟するには、自己と自己以外にだれもいない状況に沈潜することが、どうしても必要なのである。

そうでなければ、我々は自分の意志だと思っていても、ただ流されるだけの人間でしかないのである。これを欲せと言われたものを、欲することしかできない、一個の道具と化してしまう。

現実には、「ありのままの生」などというものは不可能である。孤独者とは、ある母体となる社会集団から、一個の理想を求めてその輪から飛び出ただけに過ぎないからである。我々の生はつねに歪められており、常に不自由である。我々が自由を渇望したところで、到達できるところはより自由な不自由でしかない。だからこそ、我々には芸術が必要だ、ともいえるだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿