10.09.2015

私と日本国家 2

私はどうやら、国家というものに対して理解を得たような気がする。

国家とは、あまりにも複雑で巨大な概念だけれども、いままで得てきたような誤謬に満ちた概念をひとつずつ取り除いていけば、すなわち「権力」や「統治」といった要素を使って考えると、一挙にシンプルになる。

それは国家という構造の一面的な解釈なのかもしれないが、私は生活のいろいろな出来事を、国家に結びつけることによって、不可解な現実を理解することができるようになった。

例えば、町内会やPTA、税金、警察、公共機関、労働環境、人間関係のささいなこと。それに、あの不可解な原発事故対応。

ex:私がゼミで放射能を避けるようプレゼンしたら、質疑応答において執拗な攻撃を受けた。

フーコーは権力とは上から押しつけられるものではなく、横や下からひそかにはたらくものだとしたように、こういった卑近な日常的な出来事の間に、権力はよりよく潜んでいるようである。



国家構造を知ると、私のような人間が国家集団の間からつまはじきものにされるということが、必然のように思えてくる。私は中学校や高校のクラスで排斥された。わずかな理解者と友人しか持たなかった。独学で入った大学でも、私は排除の憂き目にあっていた。

そうして、大企業の面接でも私は受け入れられることなく、田舎の小さな企業で細々と生活を営んでいる。このように、私はある権力構造からはじき出されたわけだ。

私がなぜ異端なのかといえば、それは精神的な同調性に欠くからである。つまり私は鋭敏な神経を持っていたし、また実際神経症だったからである。このような人間は、権力と親和性が低い。潔癖症なのである。それだから少なくとも日本の国家構造においては排除され苦しむことが必然となっている。

日本社会のつまはじきものは私だけではなくたくさんいる。こうした人はオーストラリアやイギリスに移住して、帰ってこないようだ。だいたい、ある程度の教養があるインテリで、語学力があり、留学経験が豊富なようだ。ただ彼らでさえ、日本に対する執着は捨てがたく持っているようである。まあ母国だから当然なのだが。

日本が私を排斥する。それは必然であり自然だ。それなら私はどうすればよいのか。海外にでも行けばいいのか?あるいは、日本国家の私に対する攻撃を、笑ってうけながせばよいのか。権力と個人の間のじゃれあいとして。

ある個人が私を攻撃するとしても、私はその個人に恨みを持つことはないだろう。それは、処刑場に赴く人間が、処刑人を恨むことがないのと同様である。

私は日本の国家構造を受容した。支配と統治の構造を理解した。

この理解は、ほとんどがフーコーの助けによるものだ。上のような文章はほとんど錯乱・狂気に近い、つまり統合失調症的である。例えば狂人の叫び。「国家権力が私を排除している!」。これと内容的には寸分変わらない。

フーコーが権力の正体をつきとめるだけでなく、狂気を問い直したのは、そういった事情によるのだろうと思う。すなわち、狂気とは、権力の認識といえるかもしれない?また少し勉強してみたい。

1 件のコメント:

  1.  では、何故個人として「正しい」ことと社会として「正しい」ことが相反するのか。秩序や権力を維持していく機構としての国家は、そのイデオロギーに反するものを排除する方向へ向かうので多くの人間の意思や存在を排除することで成立する国家ならば、それは果たして「正しい」のだろうかという疑問が発生するからではないのか?
     同時に思うのは、増えすぎた人口、過剰な自意識や自尊心、高すぎる生活水準、これらのものを抱え込んだ国民がその国を維持するためには、どうしても犠牲が必要だということだ。ピラミッドの頂点に君臨するものたちに身も心も捧げ、命がけで奉仕する存在が。だが、個人や自由を重んじる教育では、その奉仕精神というものがブレてしまう。だからこそ、国体維持の為には哲学や文学は不要という理屈になるわけだ。
     結局、奴隷である自分が嫌な奴隷と、喜んで奴隷になる奴隷がいるだけで、奴隷は奴隷だということであり、どうせ奴隷になるなら納得して喜んで奴隷になったほうが精神的にはよかろうということだ。

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