10.14.2015

ego

我を信ずるところに音楽がある。最近の弛緩は音楽をしていないからだろうか。

自己と世界とはまことに対立するものらしい。というのも、私は長く健常の世界を望んできたけれども、いざ健常に近い世界に辿りついてみると、今度は自己が恐ろしくなってきたのである。いままで拠り所にしていたところの自我が、何か得体のしれないもの、恐怖を与えるものに変容した。

会社員としての私は、凡庸そのもの、当たり障りなく生きている。仕事をしながら、思索にふけることはなくなった。さて、今日は何の酒を飲むか?何を食べるか?私の貯蓄、そして私の消費。せいぜい未来のことといったらその程度しか関心がなくなっていたのだ。

世界に適応すれば我が置き去りになる。自我に執着すれば生きることが恐ろしくなる。

私は凡庸な平和な痴愚化したあまりにも多数の人々を、幸福だと考えていた。無思考は幸せだと。しかし彼らは実のところ、「捨ててきたもの」に常に追われているのである。それはすなわち自己である。

だから、世界を捨て去ってただ自我のみに生きている人々を見ると、彼らは恐れおののく。異端だ!彼らは執拗に攻撃する。彼らの目はいきいきと輝き始める。これが彼らの本能の表れである。

つまり、彼らにとって自己の阻害は日常毎だから、内面世界を見つめる他者への攻撃もまた、慣れ切った作業のように自然にできるということだ。似たような構造は、あらゆるところで見受けられる。

処世の術
平野の上にとどまるな!
あまりに高くも登るまい!
半分ぐらいの高さから
この世を見れば、いちばん美しい。
(「華やぐ知慧」ニーチェ)
私の見解では、精神の内向、外向というのは、たとえば飛行機を見ようとして空ばかり見て駆け出し、つまずいて倒れるようなのを外向的といい、自分の足元ばかりを気にして、飛行機を見失うようなのを内向的という。(「神経質の本態と療法」森田正馬)
野生人と文明人の違いを作りだしている根本的な原因は、まさにここにある。野生人はみずからのうちで生きている。社会で生きる人間は、つねにみずからの外で生きており、他人の評価によってしか生きることがない。(「人間不平等起源論」ルソー)
ああ俺の胸には二つの魂が住んでいる
その二つが折り合うことなく、互いに空いてから離れようとしている
一方の魂は荒々しい情念の支配に身を任せて
現世にしがみついて離れない
もう一つの魂は、無理にも埃っぽい下界から飛び立って
至高の先人達の住む精神の世界へ昇っていこうとする
(「ファウスト」一部)
 

1 件のコメント:

  1.  我悩む故に我在り。どこかに置き去りになったと感じる自己もまた、手に入れて見ると実態の掴めないものである。芥川龍之介の「芋粥」では、あんなに食べたかった芋粥が、逆に見たくもなくなる様が描かれている。人間とは少し馬鹿な位がちょうどよく、あまりに悩みの海に沈みすぎると、一体何を悩んでいたのかもわからないのにイライラや憂鬱が抜けなくなる。そうなると悩むことに悩むことになり、それは非常に苦しく不毛だ。しかし、黒崎さんの悩みはある種の健全な思考へと帰着していこうという思考の流れがあり、その流れが心地よく有意義なものに感じている。悩みに沈む自己を卑下するのではなく、肯定的に認識する術はないものか。

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