10.29.2015

Il faut se déraciner

相変わらず何もなさず何にもなれずという生活だ。

私は職業人だが職業人ではない。私がもう半年以上続けている日常の仕事を、ふつうの人が感じるようにこなしたことはない。赤ん坊が、積み木を与えられたら、それを組み立てる。車のおもちゃを与えられたら、それを走らせる。人形遊びでもなんでもよいが――とにかく、私にとって今行っている仕事は、何か(唐突に)与えられたものであり、その行為自体はチックのようなもの、痙攣のようなものである。したがって意味など何もない。私はその仕事に感情をあまり与えないようにしている。

そういうわけだから、私には責任などない。仕事とは、本能の行うものだ。

私が白米の代わりにパンを食べたところで、何かが変わるわけではない。私がしているのは「仕事」であり、私が特定の職業人であることを示すのではない。私は仕事をする。しかし、私は仕事によって規定されない。

規定されれば、それは幸せでもある。パン屋のおじさんであったり、土方だったり、あるいは分子設計学の有能な研究者だったり、年収5000万円超の開業医でもいいのだが――とにかく、そういう人種として、自分の在り方に疑問を持たず、その職業的要求に専心できる、そういう人間であることができるのであれば、私も幸せだったろうと思う。

1.私には特定の何かがない。⇒対象としての問題
2.私が特定の何かであることがない。⇒主体としての問題

私には大抵の出来事や問題が、陳腐で、くだらなく思える。私が高みにあるわけではない。私にとっては、例えば青と紫の違いがわからないようなもので、たいていのことが、つまらなく思える。日常の空虚さを、埋めるための物事はたくさんある。私もそれにあやかろうと思うことがあるが、無理だった。

私の人生は、平穏と言えるのかもしれない。私は自分が何者かであると到底思えないし、私にとって大切な、ただ一つのものといったものも終になさそうだからである。私には、執着がない。こうして働いている今も、将来異国で旅をしている間も、たぶん心情的にはそう変わらないだろうという気がする。私には、身ひとつしかなく、財産も、アイデンティティも、拠り所も、何もない。

2 件のコメント:

  1. 自分への執着はあると思う。「何者か」なんて一生わからんよ。
    何もないとか言うけれど…その才能と若さが羨ましい。フローレン

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  2.  自分が何者かになれている、例えば「5000万円超の開業医」になれている、あるいは、「財務省のエリート官僚」になれているとしてもそんな感覚は一時だ。どんなに名誉や地位や肉欲に溺れてみても、結局最後には「自分などなにもなさず、なにもなれずに死んでしまう」と思うのだ。だから、あなたは早くからその境地にいるだけで、別に不幸せだとか異常ではない。ブッダも元々は王家の出自だったわけで「王家の血筋」という職業的要求に(まあ「王」は職業であるかは疑問だが)疑問も抱かず進んでおけばよかったのに進まなかったのだ。
     彼にとっては「王」であることは、仮初の自己であるという悩みを払拭することができなかったのではないだろうか。黒崎さんは常々旅にでたいと言っているが、本当は旅に出たいというよりも、自分というものが向かうべき「道」を探りあて、それに夢中になりたいということなのではなかろうか。
     

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