11.03.2015

歴史と認識

生きづらいということが物書きには必須なのだと思う。書くということで、世界と距離を置くことができるし(対象化)、また同時に接点も生まれるからである。

世界に対する愛着と、嫌悪の感情を、同時に満たすことができるから、人は書くことに打ち込むわけだ。だから、書くという行為の前提は、錯綜した感情が原動力になっている。

ex: 純文学のテーマは、だいたいこの矛盾―錯綜した感情。

良い評価を得る作品は、すべて上の感情を表現しているに過ぎない。上の感情は、つまり、筆者の心情であり、良い作品とは、技巧云々よりも、筆者の「率直さ」「正直さ」が評価されているに過ぎない。

人間はそれぞれ、非社会的・非公的・非論理的な感情を持ち合わせている。おそらく、ある程度までは人間は社会性をもって生まれる、つまり社会性はアプリオリなのだけども、現実の社会とはいくらかアポステリオリな要素を持っている。アポステリオリな要素――つまり、歴史、慣習。ある個体が生まれる前から存続し、ある個体がそれに順応しなければいけない要素。

ここに矛盾が生まれる。人間個体が引き裂かれるというわけだ。この順応に失敗(あるいは拒絶)したときに、人間は精神病=狂人になる。狂人の存在とは、歴史の否定である。だから、革新的な存在ではある。狂人の言葉は、必ずしも破綻しているのではなく、歴史・慣習から離れているだけである。

人間の社会性はアポステリオリであるという思い込みが西洋思想の中心にあったわけだけれども、私はいい加減この考えを捨てるべきであると思う。これは民主主義的なイデオロギーだ。つまり、「人びとが集まって社会ができる」というドグマ――個人の意思から社会を築き上げる(アメリカ的な)ドグマ。つまり、民主主義は(歴史・慣習的に)正しい―というテーゼが、人間と社会の在り方を規定している。

ただ、私が何度も繰り返すことには、人間個体は社会から生まれたのであり、まず社会という前提があるのである。それは、どんな未開の部族にも社会的集団がある(というか猿やゴリラにも)という事実から明らかである(ところでそういう社会集団には「個人」はない)。だから、ニーチェの言ったように「個人とは、まことに近代の産物である」。

民主主義的イデオロギーは逆立ちしているのであり、私はこのような虚偽に絡めとられないよう警戒することが必要だと思う。もちろん封建主義になればよいとか思っているわけではない(思うときもあるが)。よい社会には民主主義的イデオロギーは必要かもしれないと思う。ただ、個人が正しく生きようというとき、そういった思い込みからは解放されていなければならない。

歴史・慣習――科学とは、歴史・慣習の世界である、ということ。

我々は、科学を進歩したと思い込んでいる。ニュートンからアインシュタインへ、デモクリトスからドルトン・アボガドロへ。われわれはこう考えることができる。我々は真理に向かって進んでいる。モザイクのように漠然としか見えなかった世界が、今は鮮明に見えるのだ。我々は前進した!

しかし、実際は我々にとって世界はモザイクのままであり、ニュートンからアインシュタインへの変化は、モザイクの模様替えに過ぎない――という哲学的考察が、20世紀の論理学の分野で主張されていたらしい。つまりそれはクワインの言ったようなこと。

「物理的対象の神話が他の多くの神話よりも認識論的に優れているのは、経験の流れの中に扱いやすい構造を作り出すための道具として、他の神話よりも効率がよいことがわかっている、という点においてである。」

ここでいう神話とは、私の言う歴史・慣習と変わらない(と思う)。⇒ある個体が生まれる前から存続し、ある個体がそれに順応しなければいけない要素。

科学や我々にとっての認識がアポステリオリであり、非自然であるという事実は、嫌なものである。

我々のテーブルにはコップがある。しかし、本当にコップがあるのだろうか?哲学とはこういうめんどくさい思考の連続である。もっと突き進めば、哲学することに意味はあるのか?というところに行き着きそうだけども。




民主主義を批判してみたけども、ほんとうに正しいかはわからない。おそらく、社会から個人が生まれ、個人が集まり新社会を生み出すというモデルが正しく機能すれば、理想的な社会を作れると思う。

ただ、現実には個人とは少数であるから、うまくいかないのではないかと思う。というのも、世の中は基本的におバカが多数を占めることは、これはどうしようもない事実だからだ(認知症の老人にまで選挙権はあるし)。

オルテガの言うような、貴族的精神を持ったひとが、大衆を率いる方がいいと私は思う。というと、現代の「上級国民」「一般国民」という戯画的なモデルを支持するように思われるかもしれないが、オルテガの言う貴族とはもっとヒロイックなもので、不断の努力と自己犠牲を厭わない人間のことである。

1 件のコメント:

  1.  歴史を否定したから「狂人」なのではなく、歴史から排除されたから「狂人」になったのではないでしょうか?科学の発展は死や危険などのタブーに近いもので、どちらかといえば「狂気」の側にあったからこそ人々は恐れと怒りをもって、それを批判した。それが残ったのは人間にとって「利益」がそこにあったからでしょう。(医療・運行・出版・天体・軍事・政治など)。
     例えば「正義の味方になりたい」とか「皆を幸せにしたい」と考え、不善を成すもの、正義を犯すものを徹底的に排除する方法やシステムをもって突き進めば、それは不自然なものであり客観的に見れば一つの「狂気」と言えるのではないでしょうか?しかしながら、歴史の中でしばしば「善と悪」の線引きはなされています。(ナチスによるユダヤ人迫害・魔女狩り・焚書坑儒・宗教戦争など)また、信仰における重要な教義のなかに「神を疑ってはならない」とありますが、神を疑うとは、「神を信じる自分を疑う」ということに他ならず、そこには「信仰という狂気」から外れた者に対する批判が含まれていると思います。つまり、日本社会において大衆・世間の側にいることが「正常」で、常識や規範から外れることが「狂気」であると言えるので、そこから外れると排除されます。
     しかし、その「正常」とされてきた考えそのものが、様々な不利益(原発事故・東京一極集中による地価高騰・通勤ラッシュ・地方経済の衰退・少子化・首都直下型地震のリスク・東電の過去最高利益など)をもたらすので、大衆は混乱し、利己主義的な個人主義としての引きこもり的思考に陥るのでしょう。

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