11.11.2015

かわいいニーチェ

天使ANGE――これは使者、幸福な使者、待たれた使者、歓迎される使者である。天使は老いた者ではない、天使は学者ではない。ただ、彼は新しい時を告げる。天使は裁かない、天使は赦しもしない。彼はよろこんで与える。彼がもたらすのはあかしではない、それは一つの音信(おとずれ)である。「こんなことではいけない」と、彼はあなたの髪を直すのと同じように単純に言う、「あなたは呪われてもいないし、悲しんでもいない。あなたは無用な者でもないし、勇気を欠いてもいない。私があなたにそれを言うのは、それを知っているからだ。ところが、あなたにはそれがわかっていない」。天使は議論しない。(「定義集」アラン)
アラン(エミール・シャルティエ)の「定義集」を読んでいたら上の文章にあたり、美しいと思った。また「毎日書く、例え天才であろうと、なかろうと」とあって、なんだか励まされた気分になった。アランの精神性は私に似ていると思う。
哲学PHILOSOPHIE ほとんどすべての善が、またほとんどすべての欲望がむなしいと考えることによって、失望や屈辱に対して自らに警戒をうながす魂の按排である。哲学者が目指しているのは、自然的で自分に嘘をつかないものだけを感じとることである。哲学者の欠点は、非難する傾向が強いこと、そして懐疑をとくに好むことだ。(同書)

欲望――「私とは、精神とは、頭脳である。したがって、もし私の頭脳が適切な環境に隔離されれば、四肢や内臓は、ただの肉の塊に過ぎないだろう」と主張する人間は、おそらく腕を切り落とされても気づかないだろう。

私はこういう人間の腕を切り落として、「あなたは同じ人間か、同じ精神か」と問うだろう。「然り」と答えるならば、次は脚を切り落とし、問いを繰り返す。大腸から、小腸、肝臓、胃を切り落とし、肺を切り落としたところで彼は答えなくなる。そうだから、私の結論が正しいことになる。沈黙は絶対的肯定である。

とつまらないことを書いた。

最近ニーチェのソクラテス批判が的外れであることを知り、それが少し残念だった。

彼は処女作「悲劇の誕生」において、ディオニュソスとソクラテスを対置させたのであり、(かなり真正面から)ソクラテス的主知主義、論理主義を批判したわけだけども、秋山英夫氏によれば、アリストテレスでは知識の定義には「事物の本質を認識する純粋思惟(sophia)」と「実戦的知識、すなわち欲望を調和・統御する道徳的知見(phronesis)」とが区別されたのだが、ニーチェは「故意にこのソクラテス的『知』の意味を黙殺して、ソクラテスを理論的人間の現像にデフォルム」したというわけだ。

この解説は的を射ているようだ。私は一面では安心した、危うくソクラテス流儀の主知主義を断罪してしまうところだった。そうすればデルポイの神託などをタイトルに掲げている以上は、看板を変えねばならないと少し悩んだからである。なぜならソクラテスを世界でもっとも賢い者だと預言したのがデルポイ神殿だからである。

もっともこのデルポイの伝説も怪しいものであり、「ソクラテスは世界で一番賢い」という預言を聞いたのはソクラテスの弟子のカイレポンなのだが、このカイレポンは、「カイレポンは世界で二番目に賢い」という神託も同時に得ているからである。

さて、ニーチェは上のように「あらゆるものを、本能的に翻訳・変形(「この人を見よ」)」するのだが、ニーチェ自身も適当に翻訳されることがある。「いたこニーチェ」という本では、彼はソクラテスと対立しているのではなく、「プラトン―カント」と対立していることが戯画的に描かれている。

カントはともかくニーチェがプラトニズムの批判をしていることは確かであり、そうしてソクラテスもプラトンによって記述されたのであり、ニーチェの本当の論敵はプラトンだったと言えるかもしれない。

私は、ただなんとなくニーチェは「ソクラテス的主知主義」という言葉の持つ魅力に屈したのだと思う。確かに読者をアジテートする幻惑的な言葉である。ソクラテス批判ってなんかかっこいいし。かっこいいから使っちゃえというわけである。そういうわけで、私はニーチェの「詩人」としての才能の片鱗を処女作から感じ取ったのである(歴史家としてはアレだが)。

ニーチェはこの「悲劇の誕生」を発表して以来、学会から猛攻撃を受け、ニーチェの講義には哲学科以外の学生ふたりしか来ないという憂き目にあったという。かわいい奴だと思う。

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