11.12.2015

人間と生活

以前に比べれば、信じられないほど落ち着いた性格になった私は、相変わらず仕事においては無能だけれども、ある程度は豊かな、十分な、ストレスのない生活を送れるようになっている。

私は歯抜けになったのかもしれないが、しかし、毎日、少しずつ生活を充実させていく、基盤を固めていくような生活をするようになった。私は生活の片隅に巣くった悲惨を野放しにするのではなしに、その悲惨が小さいうちから修繕する術を知った。私はこの単純極まりない「方法」を知らなかった。信じられないことだが、26歳のいままでずっとだ。腹が減れば、何かを食べればよいことを知っていたけども、生活を守ること、精神の均衡を保つことといったことに関しては、私はまるで無頓着だったのである。そうだから、私の生活は悲惨に満ちていた。

生活の悲惨が先か、精神的な異常が先なのかはわからないが、私は生活と精神の両方を病んでいった。大学にいたときはもっとも危うい時期だったと思う。私はつねに耳をふさいで叫びたいような衝動にかられていた。生活は引き裂かれてズタボロであり、修繕不能であり、もはや目にしたくないもの、私を苦しめるものでしかなかったのである。

生活を確実のものにしてゆくこと、豊かなものにしてゆくこと。不確定なものを、確実なものにしてゆくこと。これらの人間にとって当たり前の営みを、当たり前のように果たしていくことによって、私の精神も次第に回復していったのである。

――たとえば、家具を充実させること。バイクをメンテすること。公共料金を払うこと。職場で同僚と話すこと。野良猫に餌をやること。

これまでの私には、およそ読書と音楽しか救いがなかった。それでいいと思っていたわけだ。しかし、空ばかり見上げていても転んでしまうものだから、私もようやく、人間らしさを取り戻したことになる。金を、使わねばならない。貯めた金を。自分と、自分の生活のために。



という文章を書いていた。

が、私にとってどのように生きることが幸福なのだろうか?

最近、仕事の関係で、明らかにヤクザだろうという人に会った。私は、恐れて、声を震わせてしまった。緊張で、視界がチカチカした。そのあとに、私はとても恥ずかしくなった。このような人間は、男として失格だろうと。

生活における幸福は、割合簡単に得ることができることを知った。それは、月収の5%ほどを、毎週消費することである。私は、デジカメを買った、バイクの部品を買った、ブーツを買った、デスクを買った。どれも大した値段ではないが、私の生活をゆたかにするものである。

幸福とは、単純なものである。生活が昨日よりよくなる、という感覚だ。そして、不幸とは、明日にはより一層悪くなるに違いない、という予見である。だから大抵の例において、投資はひとを幸福にし、ギャンブルはひとを不幸にする。もちろん投資がギャンブルになることもあれば、逆のこともある。それは結局、期待値の問題だ。

私は、もう、一日の食費が1000円を越えようと、気にならなくなった。無意識的に仕事をこなし、日常を過ごすだけで、金が手に入るからである。

それでも、当然、これでいいのかという気持ちはある。

しかしどうすればよいのか?私は、世間的な成功者になるという道筋に、あまり魅力を感じなくなってしまった。私が思うに、だいたいの成功者とか、権力者はサイコパスである。政治家や、経営者など見ていてもそうである。つまり、神経症的な私――敏感で、つねに怯えた小動物のような精神性を持っている私は、そのような道は到底実現不可能というわけである。

晴耕雨読な生活に憧れることがある。晴耕雨読とは、「ほんとうの勝ち組」の生活ではないだろうか。ルソーの「社会契約論」の記述を思い出す。
人びとは、都市地区が、直ちに、権力と名誉とを独占し、やがて田園地区を下落させたと思うかも知れない。が事実はまったくその反対であった。初期のローマ人が田園生活の趣味を持っていたことはよく知られている。この趣味は、賢明な建国者から、初期のローマ人に伝えられたものだが、それは自由と、耕作並びに軍役とを結びつけ、技術、手工業、陰謀、財産、奴隷制を、いわば都市へ追放したのである。

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