11.16.2015

便利で快適な真理

私の気にいるような文章を書いていたブロガーや文章家は、どうも筆が進まないらしく、いまいち煮え切らない文章を書いては、「えいや」とそれでごまかしているという有様のようだ。

なかには、更新をすっかり辞めてしまったブログもあり、私としてはとても残念なのだが、人びとの間で、なにか文章に対する期待というか、希望のようなものが消えていっているのかもしれない。

私自身も何か書いてどうという気分でもない。書かねばいけないという熱情のようなものも消えうせた。最近は、私のなかから、いろいろな願望や情熱が消えていったように思う。「これでいい」という満足のような気分が、私から不安を取り除いてくれる。

不安定な一時期は消え去った――私は世界から一歩引いて、この現実を、よくもなく、悪くもなくといった具合に、静観する姿勢を覚えたというわけだ。私は世界の光に惑わされることもなければ、闇の中で幻覚に怯えることもなくなったというわけ。

老いたのか?

私は、自分の年齢がわからない。もう死んでもいいという年のような気がする。例えばスーパーに行くと、田舎だから、私よりも年下の夫婦が、ベビーカーを押していたりする。そういうときに、私は、少しの憔悴を覚える(私は、スーパーで、帽子をまぶかに被って、イヤホンで音楽を聴きながら、半額の惣菜を探している)。

しかしその憔悴は、何か私にそぐわないもののような気がして、たとえば還暦男性の勃起のようなもので、原理としてはわかるものの、なにか受け入れがたいもの、恥ずかしいもの、滑稽なものとして感じるのである。

私は、この田舎でもう何年も働いているという気分になる。労働はもはや、無意識的に行うものになった。日々のサイクルは、私の精神に何も影響を及ぼさない。実際、ルーティンな仕事なのだが――。

都会の友人たちは、何をしているのだろう。まだあのせせこましいぎゅうぎゅう詰めの喧騒の中で、なんやかんや、生を費やしているのだろうか、なにかの衝動によって、なにか小奇麗な理想のために。

生がすべて悲惨であるということは、まったくの救いである。
人間の状態は疑いもなく悲惨である。しかしながら彼の偉大さは悲惨がすなわち偉大でありうるほど明瞭である。けだし彼の悲惨を悲惨として感じるということはただ自覚を有する人間にとってのみ許されたことである。……「人間の偉大さは彼が事故を惨めなものとして自覚するところに偉大である。」(「パスカルにおける人間の研究」三木清)
どんな状況であろうと、人間が悲惨であるという現実は、どんなところにあろうと、スマホがあればとりあえずの暇つぶしはできるように、便利で、快適なことである。なぜなら、われわれはこのことによって、幸福の条件を満たしたそのときに、不幸である自分を受容することができるのだし、まったくのどん底にあるときに、金持ちや幸福な人間に対してうらやむことがなくなるからである。

我は悲惨、彼も悲惨――しかし、それゆえに偉大なのだ。とは、実に便利で快適な真理である。 

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