11.17.2015

イデ崇

ジジェクの「イデオロギーの崇高な対象」を読んで感心したのはイデオロギーとは整合的であってはならず不条理でなければならないということである。

つまりイデオロギーとは我々を欺くもの、知らぬ間に無意識に潜入し我々をコントロールするもの――ではなくして、我々を傷つけるもの、受容しがたいもの、すなわち外傷的でなければならないのだという。

ジジェクはその一例として「法」をあげている。ジジェクは法律というものは、正当性、整合性、合理性を要求されるものではないとしている。ひとが法律に従うのは、それが法律だからであり、それが合目的的であるわけでもなく、ましてや真理に近しいとかいう理由によるのではないのである。

ジジェクは、パスカルの一文を引いている。

「してみると、人が、法だからという理由で法や習慣に従うのはよいことだ。……だが、民衆はこのような考え方を受け入れようとしない。彼らは、法や習慣の中には真理があると信じており、それで法や習慣は正しいと信じ、それが古いことを、(真理抜きの、ただその権威だけの証拠としてではなく)それらの真理の証拠とみなしている。」

我々は法が正しいからではなく、法の実効的側面(刑罰)を恐れるがためではなく、法が法であるために従うのである。別段、真理であるかどうかは肝心ではない。

繰り返すが、ジジェクによれば、イデオロギーは「外傷的」でなければならない。われわれがあるイデオロギーに従うときに、それは、何か受け入れがたいもので「なければならない」ということである。

ある意味で、それはイニシエーション的なものなのかもしれない。たとえば、ある部族では、成人の儀式の際には、高台から飛び降りなければならない。だれだって、高台から飛び降りたくはない。また、飛び降りることに意味はない。だれが得するわけもない。しかし、それを受け入れ、能動的に飛び降りるということ――このプロセスを踏んで、ようやく成人とみなされるのだ。

ソクラテス的合理主義であればどうだろう。「そのようなことは、勇敢さを示しはしない。かえって、周りからバカにされはしないかという臆病さから、彼は飛び降りているのだ。そうだから、このような儀式は即時やめにするべきである」となるだろう。

もっともこれは正しい。至って論理的だ。しかし、正しいがゆえにイデオロギーとしては成り立たないのである。

私は、ニホンコクミンの言う「大人になれよ」という言葉を思い出す。社会は不合理なものだ、「理屈じゃないんだ」と。不合理なものを、正そうとせず、それを受け入れる。その過程は、屈辱的だろうか?私はそうではないと思う。かえって、栄誉と、恍惚とに満たされるのではないか。

私は、イデオロギーに埋没する恍惚がなんとなくわかるという気がする。集団のなかで、摩擦なく生き、そして死んでいくという工程が、実際人間の真の幸福であるという気すらしてくる。

人間は――とヘーゲルは語りき――「死の病に冒された動物」、すなわち貪欲な寄生虫(理性、ロゴス、言語)に侵略された動物である。この視点に立てば、「死の欲動」というこの根源的否定性の次元が、阻害された社会的条件の表現であるはずがない。それが人間の条件(La condition humaine)そのものを定義づけているのだ。解決はありえないし、それから逃げることもできない。すべきことはそれを「克服」「廃絶」することではなく、それと折り合いをつけ、それをその恐ろしい次元の中に認める術をおぼえ、そしてこの根本的認識の上に立って、それとの間に和解協定(modus vivendi)を結ぶことである。


われわれは理性―idealismと不条理―realismの間でゆれうごく生き物であり、そうしてその間にある揺れ動き、あるいはパスカル風にいえば、「どちらでもある」という矛盾した状態、こそが、私たちの人間の条件であるのかもしれない。

個人的な考えとしては、我々には理性以前の状態があったはずであり(ルソーのいう「自然状態」)、人間の条件とは、必ずしも理性と不条理の葛藤にあるのではないという風に思っている。私はなんとなく、日本人の非合理的な社会構造に、かえって非合理であるがゆえに、少しの期待を抱けるのではないかと思う。

結局、理性をどこまで信用すべきかということになるのだろうと思う。

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