11.21.2015

真理はあるのか


私は学者たちの家を去ったのだ。しかもドアを強く背後に閉じて。……わたしは自由を愛する、そして生き生きした大地を覆う空気を愛する。わたしは学者たちの地位と威厳の上に眠るよりは、むしろ牛の皮の敷物の上に眠りたい。……かれらをつかめば、かれらはしかたなしに粉袋のように埃を立てる。しかし、その埃が、もとは夏の畑の産みだした黄金色の歓喜……であることに、だれが思い及ぶだろう(ニーチェ)

プラトニズムとは何かと言えば、崇高なもの、完全なもの、深遠なもの、絶対的なもの、永遠なものに対する従属である。なぜなら、イデアに対してはわれわれすべては「洞窟の影」に過ぎず、不完全なものでしかないからである。

見えないもの、存在の確認できないものに従属するという構図は、セム系一神教によくみられる。われわれは古代ギリシャの哲学とキリスト教を何か別物のように考えがちだけども、実は思想的には地続きである。

われわれがなにか学ぼうというとき、それはだいたいプラトニズムの臭いがするものである。科学がこれだけ権威を持つようになったのも、それが真理に近いという理由であり、その前提には、真理は存在する、という思想がある。

われわれは無意識にある事実を「階層分け」して、ある極点に真理を置き、それに近い順に事物を羅列している。

だから、われわれはある事実を確認したとしても、それは目の錯覚だ、一時的な錯乱だ、脳内の神経伝達物質がどうだ、と言われると、その経験的事実の方を覆して、科学的教説の方を信用してしまうものである。

例えば「雷は神の怒りなのか、雷は放電現象なのか」、という命題を前にすると、我々はふつう自然現象としての後者を肯定し、神話的な前者を否定する。あるいは「放電現象で、かつ、神の怒りである」と両方肯定する人もあるかもしれないが、ともあれ後者はある事実として確認されるのである。

しかしクワインによればそういう真理の階層分けの作業は、われわれが「その方が楽だから」認めているに過ぎない。例えば落雷がまったく未知の現象であったらどうか。記述不可能なものであるとすれば、われわれはそのたびに科学の無力さを思い知ることになる。それは宙ぶらりんであり、不安定であり、恐怖である。だから、科学は落雷を記述しなければならないというわけだ。それはまったくひとびとのニーズに適っているのである。

さて、ここで問題は、雷の「神話的な説明」もまた、記述する要求から成立したものだということである。ここで、科学的な説明と神話的説明の違いはなにか?いったい何が科学と神話を分かつのか?

クワインの指摘したことは、「科学は科学によって基礎づけられる」ということである。このことの意味は、科学が「根」をもっている、つまりなにか科学が根拠を持っている、ある絶対的基盤のうえに立っている、という事実はないことである。これをクワインは証明してしまったのだ。

だから我々にとっておそらくは、科学的説明も、神話的記述も同一に無根拠であると言えるだろう。分析哲学者のうちのだれかが言ったように、「科学はその本質では呪術と変わらない」ということになる。

そういうわけなので、私はプラトニズムをいよいよ否定する段階にきているのではないかと思う。もうこの世には真理なんて存在しないし、見えない真理に服従する必要はないのである。われわれはイデア的な真理の追及に生を浪費する必要はなく、生そのものを生きることが必要なのである。

結局実存主義に行き着いてしまった。

1 件のコメント:

  1.  もし、本質としてのイデアが存在せず、真理とは実存の側にしかないとして、それが理屈の上で納得できるものだとします。しかし、それでもというかそれ故に、「イデア的」な幻想にすがり付きたいと思うのが人の性なのでしょうか?それとも、そこに納得すれば人はイデアへの崇拝をやめるのでしょうか?

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