11.22.2015

無能の自己肯定

実存主義と言いつつも……。私の大地的生活はめちゃくちゃなことになっている。仕事でミスばかりして同僚の信頼がない。私はこの仕事は合わないという気がする。もともと、好きで入った仕事でもないし――。仕事、それ自体に自分が向いていないような気がする。こういう人間はどうすればよいのかわからない。

私の会社にいるある人は、仕事が大好きのようで、バリバリと働いたあとには、家に帰ると寝るだけなのだという。仕事をして、それで、すべてが充足してしまうような人間は、きっと幸福に違いない。また、上司や同僚の評価も高く、責任感があり、実際有能で優秀である。

私はといえば、仕事が終われば、なにか従属から解放された気分になって、ようやっと、自分の正しい在り方に戻れるのだという感じがするから、そこからいろいろな作業をして自分を慰めなければ、まったく日々を生きていける気がしない。

例えば読書だったり、楽器だったりする、こういうだらだら書きにしてもそうだが、こういうものが私の存在を繋ぎとめているのである。

自分はまったくの無能な人間であるのだが、その一方では無能な人間なりの自己肯定というものもあるから、嫌らしい。主体としての人間は、自己を完全否定してしまえば生きていけない、だからおそらく感情や理性といったものにも生存の狡知が働いているはずであり、私は合理的にモノを考えているわけではなく、漠然とした自己肯定というのは、べつに根拠があるのものではないのだ。

自分の思考工程を考えてみれば、たとえば、天才に精神疾患患者が多かった、というある一般的事実に対して、私はそれを拡大解釈し、精神疾患を持っている自分は、天才に違いない――というふうに自己肯定した。

つぎには、(似たようなことだが)自分は仕事において無能だが、それは自分が本質的にアウトサイダーだからなのだ、と考えた。つまりニーチェやゴッホのような、存命中は世に認められなかった天才のようなものに、自分を当てはめた。

また、仕事において失敗続きである私は、あの東洋の宗教の金言、「失敗と成功を同一のものとして見よ」という言葉で、自分を慰めたのである。

こういう自己肯定的な情報を私は探し求めた。だいたい、こういうことは書物にしか書かれていないので、私が青春の危険な時期に、一心不乱に読書したのも必然的というわけである。

生きづらく不安定であるということが、私の定めであるらしい。

1 件のコメント:

  1. ミスなんて気にしなくていいよ!わざとじゃないんだからさ。フローレン

    返信削除