11.26.2015

矛盾存在

まったく生きている実感もなく、退廃的に生きている。

私が生きている世界は明確な答えもなく、それがゆえに苦しんでいる。ある真理がどこかに隠れていると思っていたけども、結局、そんなものは一時的なもの、であって、永遠不変なものなど、ないのである。

クワインによれば我々の精神は保守主義を持っている。それはひとびとはある「わかりやすい答え」を、特に厳密な根拠や理由もなく、信じるということである。この考え方によって、人々がいかに科学を信奉するかを、クワインは説明した。

例えば我々の第一層はテレビの言うことを信じる。第二層は、テレビではなく、ネットの情報を信じる。このどちらも、保守主義のはたらきということができるだろう。なぜなら、どちらも大抵は、嘘でたらめだからだ。それはなら古典哲学は?というと、これも曖昧で捉えがたいし、ときには嘘が混じっている。

人間は不安定な状態を避けようとする。パスカル風に言えば、自分が動的な存在であることを否定しようとする。凡庸な人間は、たいてい、静的にとどまろうとし、ある事件が彼を揺り動かしたとしても、またすぐに社交や慰戯によって、静的に戻る。

しかし人間とは、ある無限と、ある無限の間を行き来する存在、つねに動的であるというのがパスカルの謂いである。その意味では、ある人間の一個の理想的究極点があるとした、聖人思想や、プラトニズムをパスカルは否定し、ニーチェなどにつながる実存主義・自然主義を打ち出したと言えるだろう。

科学を相対化したのもパスカルの優れた業績だと思う。パスカルは言う、科学は科学として、科学の範疇では理論的に処理できるが、人間に当てはまるものではない。人間存在には、別の真理が必要だ、と。

パスカルは自然科学の業績もまったく非凡で偉大だが、そのパスカルが科学を「相対化」するというのは、並大抵のことではない。ここにパスカルの思想家としての、人間としての実直さを私は感じる。

パスカルの思想を簡単に言えば、人間存在は論理的に処理できるものではないということである。というのも、人間は「偉大であると同時に悲惨」という矛盾に満ちた存在であり、矛盾を誤として処理する科学的・論理的思想では、原理的に人間を説明することは不可能ということである。で、パスカルはそういう矛盾を包括する存在としての「神」に行き着くというわけだ。

私が苦しんでいるさなかにも、少しの救いを見出すことができるのは、こういったパスカルの思想のおかげであったりする。私が苦しんでいることは、正しいのだし、苦しんでいるがゆえに、偉大に近づくことができる。

だから宗教や哲学というのは、案外バカにできない。もっとも、こういう思想への傾倒も、決して真理へのそれではなく、クワインの言う「保守主義」なのかもしれないが……。

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