11.28.2015

天か地か

昨日はくだらないことを書いた。

プラトンとニーチェの対比を考える。プラトンは天を志向した。ニーチェは大地を志向した。天、我々には手が届かないもの、神聖なもの、超越的なもの。大地、我々の身近にあるもの、卑俗なもの、現実的なもの。

ニーチェによるプラトニズムへの批判は、「天ばかり見てつまづく人間」への批判と言えるだろう。超越的なものばかり追い求めて、生を無駄にすることは、逆立ちした人生観というのである。

ところで、日本はなぜキリスト教が根付かなかったのか。

山本七平によれば、日本人が無宗教であるというのはウソで、特異な宗教観を形成しているのだという。山本曰く、国家が家族的な繋がりを持っている。社員にとっては社長が神だし、子どもにとっては親が神である。こういう繋がりが積み重なって、最高権威――昔であれば将軍に、今であれば天皇へとつながってゆく。

キリスト教の個人主義的な価値観は、こうした繋がりを切断してしまう。というのも、神の前には万人が平等だからである。神の前には、父母だろうと父親だろうと、ただの哀れな羊でしかないのである。それはさながら天空から見下ろせば為政者もただの粒でしかないのと同様である。

だからかつての日本人は、キリスト教を強圧的に排除した。キリシタンとはすなわち、国家=家族イデオロギーに対する離反であり、思想的には国家反逆者なのである。

この国家=家族イデオロギーは今でも続いていると私は思う。よく考えれば、私も大学時代は、西洋合理主義的な考え方をしていたから苦労した。例えばミルの自由論にあるような、「法律に違反しなければ何をやってもいい」という考えは、日本では通用しない。

日本ではまず法律が権威を持っていない。法律が西洋並に重視されていれば、企業間の談合やブラック企業、各種のハラスメントは一掃されているはずである。日本人を支配しているのは、何よりも縦の繋がりである。縦、とは、一般的な下級国民と、天皇の間に描かれた線のことである。

だから我々日本人は、法律による束縛よりも、親とか、上司の発言に容易に左右されうるのである。

ただ、私は日本的価値観は非論理的・非合理的、また非人道的だからと言って、容易に否定すべきものでもないと考えている。キリスト教的価値観が浸透すれば、たしかにこの国は解体してしまうように思えるからだ。

我々が平等であることは、必ずしも良いことなのか。我々は本当に、縦の繋がりを廃してよいのか。ということを、考える。いわば、天か地か、というところだが。

天か地か――この命題は、人間にとって極めて重要なテーマであると思う。もう少し調べてみたい。

1 件のコメント:

  1.  西洋では「神」との対話において「個人」の存在が確立し、王やエリートはその存在の高貴さや権力によって民衆に君臨するように見えるけれども、究極的には民衆の聖なる供物としての生贄であるという理論がフレーザーの「金枝篇」の中に書かれていたように思います。一方日本では「世間」や「お天道様」にあたるものがその「神」に近いものであり、その顕現として「天皇」を中心にした身分構造を構築しているように考えます。「神」との対話が、極めて個人的な表に現れない営みであるのに対して、「世間」や「お天道様」というのは言動、思想、労働など具体的な行動に対する視点が多く含まれ、道徳や倫理などの側面にかなり影響を与えるものだと考えます。
    黒崎さんの言うとおり、どちらの姿勢が正しいかということではなく現在の社会ではどちらの生き方もでき、またその生き方が相対化されてしまうという点にこそ問題があるわけで、それらの問題を脇に置いて欲望や自由さを優先した生き方を指向する社会へと移行しているような気が個人的にはしております。

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