11.30.2015

じょうろ、鍬、犬

何かを語ることにそこまで意義を感じなくなってしまった。私も快癒に向かっているのかもしれない。

考えてみれば、書くこととは、世界と和合している人間には不可能なのであり、もし凡庸な群衆のなかで、疑問なく生きていくことができれば、書く必要などないのである。自分が世界からつまはじきものでなければ、世界を描くことはできない。

西洋と東洋、天と地、希望と絶望、集団と個人、一神教と多神教といったテーマに、最近はとても興味があるので、いろいろ勉強したいと思っている。

多神教はおそらく幸福の宗教であると思う。多神教は、幸福は可能だという前提を持っている。仏教も、キリスト教も、この世は不幸なものだとした。現世利益など迷妄だと。

ひとは、この世に絶望しかなければ超越的な神を求めるようになる。その象徴は、太陽だったり、天空であったりする。手の届くところに救いがなければ、そういったところに求めるしかないのである。反対に、食べ物がどこにでもあり、子孫を増やせる環境におかれた人は、なにか身近なものに信仰を求める。たとえばそれは女性であったり、恵みを与える山であったり、大樹であったりする。

一個のじょうろ、畑に置きっぱなしの馬鍬、日なたに寝そべる犬、みずぼらしい墓地、不具者、小さな農家……いかなる言葉もそれを言い表すには貧しすぎる(「チャンドス卿の手紙」ホーフマンスタール)

大地と天空の差異とは、こういうことである。神が手に届くか否かは、幸福に手が届くか否かということでもある。

そういうわけなので、西洋的な宗教はつねにこの世の辛さを説くのだが、原初的な東洋思想では、この世は幸福だから楽しもうということになる。

世界全体が科学技術によって徐々に豊かになってきている現実は、日本的な思想の優位性をもたらすはずである。というのも、我々はとりあえず食うに困らないからである。もし万人の人々が日本の大衆のように考えたら、世の中は平和に豊かになるだろうと思う。

それでは困るのが西洋思想であり、西洋思想の発展の前提はこの世の飢餓であり、不幸である。現世的な幸福と、西洋思想は矛盾する。だから、この世界の支配者であるセム系一神教の信者たちは、いろいろな言い訳を見つけては戦争を繰り返し、この世に不幸や絶望、悪を振りまくというわけである。

このような考え方は、浅薄なナショナリズムに思われるかもしれないが、私は割と当たっていると考えている。私は武器の出土しない縄文時代に、人間の可能性を見出している。



最近は、自分が知的労働者でないことに、葛藤を抱いている。実際の仕事は、一般的に知的労働と考えられている仕事だが、まるで創造的ではない仕事だ。

創造的――クリエイティブという言葉は、少し前に流行った。今は少し陳腐に感じる。時代が進めば、もっと恥ずかしい言葉になるだろうと思う。

先日、会社の忘年会があったのだが、そこで同席した別のグループの若い男は、ビジネス書で読んだようなことを説教していた。いわく、あなたの夢ってなんですか、私の夢はこうです、自分の夢を毎日声に出して言わなきゃいけない、私は成功すると念じるんです――とかなんとか。世の中にはこういう人間――ビジネス書に感化される人間がほんとうに実在するのか、と感心した。

もっとも私も少し前はジョブズが好きだったし、有能なビジネスマンになれると思っていたし、くだらないビジネス書やちきりん女史の本を読んでいた。とくにナポレオンヒルの本は大好きだった。それにしても、流行が遅すぎる。私は寒い思いをした。さすが田舎だ。

ともあれ、日常は退屈でやりきれない思いがする。こうした日常は、真に自分のためのものとは言えないと思う。この労働の一切は金のためだ。

知的労働のひとつは、大学教授である。大学教授(文系)のみなさんは、けっこう暇なのか、毎日ブログを更新するので楽しみにしている。書評に音楽評、映画評、オペラ評、旅行記、ずいぶん楽しげである。もっともこういうブログは国立大学のおじさん教授のものであり、若手はほとんどブログを更新していないようだ。

もうひとつは、文筆家であり、これは思想家と言ってもいいだろう。こういう人々は、あまり私の知らない人々ではあるけれども、豊かではない生活ながらも、自由にやっているらしい。

私にはもう大学教授なんて無理だから、在野の思想家として、適当にいろんなことを追いかけたいと思っている。

とにかく、静謐な環境で読書をするか、あちこちを旅するか、そのどちらかがしたい。来年中には実現させたいものである。

0 件のコメント:

コメントを投稿