11.06.2015

日常の仕事

今日も一日、仕事をこなした、明日も仕事なのだが、まあそつなくこなしていく予定である、日常は、私を拒絶しないようだ。どうもこの気候がいいらしい、私たちは、適度に乾燥した清涼な空気に触れると、健康になる。都会であれば、こうもいかなかったかもしれない。夏がどうしようもなく不快なことは、おそらく北国を除けば田舎も都会も変わらない。春も、どうも、雨が多くてやりきれない。

ここ最近の気候は良いという気がする。私は、仕事に対して距離感をとりつつも、ちょうどいい距離感を模索し、仕事に対して、押しつぶされることもなく、熱中もしない、よいバランスをとっている。私は仕事とは、積極的に行うものでなしに、かといってある強制力によって従わされるものでなしに、本能的に自然に行うものだと思っている。

それは、赤ん坊が積み木を前にしたときの衝動と同様である。積み木を彼は、組み立てる。それは母親に褒められるからでも教育によって条件づけられたわけでもない。とりたてて理由もないのだが――彼はそれを組み立てる。

私の仕事は、ろくでもないものであり、単純作業や事務的な作業が多く、とてもやりがいなどとは無縁なのだが、それだけに仕事というものの現実を、すばやく知ることができた。

学生時分の私にとって、毎日同じような仕事をしている人間というのは、おそらく愚鈍なのであり、私はそのような生活にはおよそ堪えられないと思っていた。私にはもっと、刺激的でクリエイティブな仕事が適しているだろうと思った。

そういうわけで、私は1年か2年かこの仕事を続けて金を少し貯めたら、退職して、世界を放浪して、その経験を活かして作家デビューでもしようかと思っていた。私はそれまでの経験から、あらゆる環境になじめなかった。だから、会社という組織のなかではもっとなじめないだろう、と予測していた。

ところで、現実にはどうだったろうか。私はいま考えるに、この仕事は、特別な事情がなければ、一生でも続けられる、と実感している。

仕事とは、本能的に行うべきものであり、その意味では食事と通じる。われわれの食事にまず必要なものは、米やパンのような炭水化物であり、肉ばかり食べていても病気になるし、刺激物についても同様である。そういうわけだから、くだらないルーチンや、必要性のわからない事務作業のような仕事こそ、健康には不可欠なものかもしれないと思う。

逆に言えば、刺激物だらけのような仕事や、甘ったるい仕事のようなものは、胃腸障害を起こしたり、糖尿を起こしたりするので、健康にはよくないということになる。

私が今の仕事に就いて良かったと思うことがあるとすれば、上のような事情である。私は田舎のゆるやかに流れる時間のなかで、目標も、悩みもなく仕事をしている。もちろん仕事をし始めたときには恐ろしい苦悩に襲われたけれども、とりあえず、ジャパニーズ・スタンダードの劣悪な労働環境に比べれば、私はまあまあ恵まれているといった具合である。

しょせん、この気分の良さは気候によるものであり、また憂鬱にかられれば、仕事を辞めるだの、何だの、書き始めるだろう。

最近、「悲劇の誕生」を読んだ。ニーチェの処女作である。私はニーチェにかぶれていたのだけど、だいぶこれによって熱が冷めたという気がする。いや、少し冷め始めていたのか――もちろん「熱感」という意味では、すごい書物なのだけど。

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