11.19.2015

物をなくしやすい人

今日は散々な一日であった、ひとつに、歯が欠けた、つぎに、車のカギがなくした、低血糖で倒れそうになった、それと、職場でなんだかまた浮き始めた。

車のカギは、帰宅後、洗濯槽のなかで見つかった。私は信じられないほど物をなくす。財布をよくゴミと一緒に捨ててしまう。忘れ物は多いし、物を探すのが大の苦手だ。

おそらく、ADHDか何かなのだと思う。低血糖で倒れそうになるのも、自分の空腹感に対して無関心であるから、つまり注意欠陥的であるからだろうと私は考えている。私はべつに糖尿の薬を飲んでいるわけではないが、しょっちゅう血糖値が下がって意識が混濁するのである。

しかし、ADHDだから何だというのだろう。そもそもADHDってなんだ。よくいるおっちょこちょいを、科学の力で治療してやろうというわけか。ADHD、それは一個の定義づけに過ぎない。

モノに関心がなければ、モノをなくすことが多いのは、必然である。人よりモノに関心がないということは、べつに悪いことではないし、むしろ倫理的には良いことだと言えるだろう。同様にして、金をなくすことも、仕事に集中できないことも、人の信用を無くすことも、必ずしも悪いことではない。

仕事に熱意を持たないということは、正しい認識をしているということだ。なにせ、仕事とは、たいていどうでもいい労作の連続だからである。人に執着しないということも、また良いことである。他者というのも、基本的には我々にとって恐怖の対象でしかないからである。だから、みんな仲良く、という言葉はイデア界でしか成立しない。

ADHD、仕事で使えない、社会になじめない、周りから浮く人間というのは、私は一定の価値があると踏んでいる。端的にいえばアウトサイダーだからだ。つまり独創的な仕事をするのは、このタイプなのである。

そういう人間は、社会にとって脅威の対象となる。

これはどういうことかというと、アウトサイダーは、社会と自己を対置している。ということは、社会を相対化してみることができるということである。そういう思想を持つ人間が増えると、社会がドグマとして機能しなくなるのである。

たとえば革命とか、テロリズムとか、デモ運動などというものは、社会にとってなんでもない。それは社会という場のルールに従っているものだからだ。つまり、その行為は社会のために、人間が奉仕するという構図があるからである。それらの行為が成功するとしても、結果はドグマの書き換えであって、喪失ではないのである。

社会が恐れるのは、それ自体の消失であるから、アウトサイダーは社会の本当の敵であると言えるだろう。彼らは、実に周到に駆逐されていくのである。ニーチェは梅毒、ルソーは露出狂という風に、真の天才的思想家のこういう汚点ばかりが強調される(そうして二流の思想家が神格化される)のは、社会の自己保存的機能によるものだと言えるだろう。

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