11.05.2015

Mosaic

哲学が真理であったためしがなく、おそらくこれからもないだろうということを知ったときに人はどうすればよいのか。

我々にとって世界はモザイクであり、認識不可能である。そのモザイクのマス目を、赤く塗るか、青く塗るかという問題に終始しているのが哲学であり、真なる認識(モザイクを暴くこと)に至ることは、おそらく永遠にないのである。

これまでの我々は、「進歩している」と考えていた。人間とは動物から神に至るまでの過程であると考える人もいた。たしかに科学は進歩したのであるけども、はたしてそれが科学的認識を抜きにして進歩したといえるのか?という点が、疑問なのである。

我々は科学を信奉する。例えば我々は進化論を信じている。アダムとイブから人類が生まれたのだ、などとは、ふつうは思わない。また日本の神話のように、兄妹神の近親相姦によって国や人間が生まれたとは、これも考えられないことである。そういうわけなので我々は、我々の先祖は猿であり、もっと辿ればげっ歯類だ、と考えるわけである。

しかしながら、もしも我々の生活にメディアや教育を通じてダーウィニズムが現れることがなければ、我々は、天井裏を走るネズミが自分の先祖だとは考えないだろう。ところがメディア・学校で進化論を教われば、われわれはそういうものだと信じるものである。とくに子どもだとそうである。

ある幼児を教育やメディアから隔絶してしまえば、独自の世界解釈を得るだろう。それは未開民族の宗教思想にも通じる。果たしてそれが間違っているのか?それが不幸なのか?これはだれにもわからないことである。

もしかすれば、慣習―歴史的ドグマの(安逸で勝手のいい)認識を得た我々よりも、ずっと正しい認識をする――そういう可能性があるとは、考えられないだろうか。科学とは、我々にとっては、我々以前にあったものである。それは我々にとっては、獲得するものというよりも、適応するものである。それは一個のドグマであると同時に、世界を形づくる環境であるから。

そういうわけで、我々は科学によるドグマと、科学による構造物に囲まれて生きているということなのである。おそらくそれ以外の世界が人類には用意されていたはずだが、そんなことは、生まれたときから適応の仕事に追われていた我々には、知る由もないのである。

2 件のコメント:

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  2.  学校教育で学ぶことができるイデオロギーとは、「集団の中でいかに間違わずに利を得られるか」だと思います。規則や法則や道徳とはソーシャルスキルの一環として消化し学習しているだけであり、その語の就職や進学において上手く適応するための方便として学ぶわけです。
     その中では手段が目的化しているので、「勉強のための勉強」、「適応のための努力」に関心が集中し、予備校や学習塾でもその方法に長けている所が優れているとされます。こうしたイデオロギーに過剰に適応してしまうと、「極端にリスクを恐れ、自らの意志や目的を見失ってしまう」か、オウム真理教の幹部連中のように「手段を目的として評価してくれる環境に埋没してしまう」になってしまうのだと考えます。
     では、なぜそこまで人は「適応」しようとするのか?それは、「適応しなければ批判され、排除される恐怖」と「孤立しても自分を保っていられる自信がない」という考えがあるからに他なりません。しかし、社会では一つの評価軸だけがあるわけではないので、完全に適応することは難しいと言わざるを得ません。

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