12.09.2015

決定事項

かく、われにより、そなたには、秘中の秘なる知識語られたり。隈なく、それを反芻熟慮して、欲するがままになせ。(ギーター/鎧淳訳)
なにか明確な目標、絶対的な方向性があればよいのだが。ある賞を取りたいとか、ある地位にたどり着きたいとか、いくら稼ぎたい、とか。

今のところ、私は旅に出るということが、夢目標である。文章家になるということも、ひとつの目標ではあったが、いまではそれほど思わない。

私には文章に適性があると思っていた。しかし、それで食べていこうとはあまり思わなくなった。端的に言えば、世間に認められることに、価値を見いださなくなった。それに、そんなことは才能的にも不可能であると感じる。私が意欲を持たないことと、私に才能がないこととは、同じことを意味する。適性とはそういう類のものだと思う。

有名人になったり、勲章をもらったりすることに、価値を見いださなくなった。それらの「序列」は、私にとっては、何かひとつ下の次元の話に見える。指でつまんで持ち上げられる程度の、私には無害な、私には無関係なもの。

幸福も不幸も同一であり、失敗と成功も同一ならば、私の生のある瞬間が失敗ということはないし、今現在の田舎の半狂人としての私、世間一般の失敗者としての私は、同時に成功していることになる。

私も、生きることに慣れてきた。生きることに慣れてきたから、私はずいぶんうまくやっていくことができている。もはやどこまでが、私の精神で、どこまでが、私の肉体なのか、そういう垣根も、わからなくなってきた。私の血清カリウム値や、甲状腺ホルモンの値が、適性に保持されるのと同じように、私の精神も、私の知らないところで、勝手にうまくやっているらしい。

何もかも和合している。という気がする。梵我一如な感じ。


最近は、詩人気取りも、学者気取りも、辞めた。なんだか物を書くことが、私にとっての慰撫であるというよりも、もっと嫌なもの、倦怠、うんざりすること、書いたあとに、吐き気を催すもの、であるという気がする。

何か、まっとうなことをしたいと思うときがある、何かに全力で打ち込みたい、私を置き去りにして、ただ行為のなかに沈潜したい、と思うときがある。母親にとっての子どものように、何か作品を作ってみたいと思うときがある。

が、よくわからないが、私はそういう風にはできていないらしく、世間的な成功は望めず、あいまいな素体としての人間のまま、生きていくことが規定されているらしい。

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