12.01.2015

哲学療法

気が付けば、もうブログを初めてから、4年になろうとしているけども、私はといえば、何か直線的に進歩したというよりも、どちらかといえば何か漠然とした躓きのようなものに捕らえられている気がする。

元はと言えば、世界を変えるだの、そういうことが目標になっていた、そのときは、この世には正しいことがあり、それに向かって人びとを導かねばならない、そういう風に考えていた。世の中は間違っているから、正しい世界にしなければならないと思っていた。ところが、四年の年月の間に、いろいろなことを学び、いろいろなことを経験し、また記述していくうちに、結局は、「正しいもの」や「真理」などといったものは存在しない、ということが、次第に明らかになってきた。

また、一見間違っている人々も、間違っていて、彼らは正しいのだ、ということを知った。つまり
 彼らは間違っていることを行っていて
 時には自分が間違っていることを認識しているが
 それで尚かつ、彼らは正しいのだ
ということを、私は知った。

私は、学ぶことで、視界をクリアにしようと思ったのだが、この世の天才や賢人や偉人や文学者や名誉教授なんかの本を読んでいくうちに、生はどんどんとカオスに満ちていくようになった。ひとりの天才が「世界はかくなるものである」と、何か判然としたことを言われると、そうなのかもしれない、と思うが、10人の天才がてんでばらばらに「世界はこうだ」と言い始めたら、私のように天才でもない人間は、当惑するしかない。

すべてが、間違っていて、正しいのだ。それを知って、私は何にも反発できない、何にもすがることのない中空に放りこまれたような不安を覚える。

こうして世の中のことは、まるでわからずじまいで、おそらくこの現状はいくら勉強を重ねても改善不能だということはなんとなく理解している。ようは、理想などなく、真理などないのである。だから、われわれは進歩などなく、ただあるのは「今ココ」でしかない、ということになる。

四年を振り返ってみると、終始一貫して、私はニーチェを愛していたことになる。どれだけ私がニーチェに救われたかわからない。「真理は誤謬である」ということも、ニーチェに教わったのであった。

また、今日まで通じて、私の重要な特性は、精神疾患であることだった。私はなんども自分を神経症と語っていたが、最近は、西洋合理主義の相対化によって、少し改善してきたように思う。

まさか、哲学が病を癒やすとは!神経症とは、理想的自己を求める(それによって現在的な自己を否定する)というプロセスだから、理想という概念(プラトニズム)から解放されれば、自然と病は癒えるのである。

そういうわけなので、神経症の諸氏は、ニーチェを読むことをおすすめする。神経症とは、いわばプラトニズムの被害者なのである。

だから、「じょうろ、鍬、犬」なのである。我々はそういうところに真理を求めなければならない。すなわちゴッホのような芸術であり、そうして狂気的な世界である。「真理はない」という前提に立てば、必然的にその思考は、狂気じみてくる。私は哲学の次の段階に進んでみたいと思っている。ホーフマンスタールも55歳まで生きたし、狂死することはないだろうと思う。

2 件のコメント:

  1. ぼくも哲学のアカデミックな在り方に、いささかうんざりしています。
    アルケー・テロス図式のヘーゲル的真理はないにしても、生Lebenにとって、より本来的な、fitした様態は存在します。現在支配的な合理主義・効率主義は生Lebenの活き活きした活動を考慮しません。人々は生から、世界から、物語から、ほぼ切り離されて生きています。人間の全体感を喪失しているのです。
    われわれは合理主義から、わたしたちの生活を守らねばならないのではないでしょうか? つつしみや、ささやかな行いによってなんとか現在の生が保たれているのです。現行の生活を保つためにも、誰かがそれを受け入れ、やらねばならないのです――たとえ、あなた個人が、そういった活動から降りたのだとしても。

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  2.  上記の方がおっしゃるように、「真理」がたとえばアカデミックや権威の側になかったとしても、それ自体が無いとすることは先人の積み上げた哲学の歴史を否定することであり、また人の生の理想を闇に葬る行為になってしまう訳ですから、個人の心理はさておきそれ自体が無くなることを指向してはならないのだと思います。しかし、黒崎さんのたどり着いた境地とは、決して真理を否定するということではないのではないでしょうか?つまり、部分を切り離して主義や理想、立場にのっとった現実認識の中で「真理」にたどり着こうというのではなく、「生活」のなかであるいは「自然」のなかにその「真理」を求めていこうという姿勢のように感じられるのです。その意味で、今までの部分や権威にのっとった「あれかこれか」的思考形態を止めるという意味での「真理はない」発言であり、同時に自然な認識に基づいたアプローチを受け入れるという意味においての「狂気」ないし「次の段階」発言なのではないか?と個人的には思っております。お二方の考えに対し、勝手な解釈を加えてしまいまして申し訳ありません。

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