12.14.2015

解なし

とくに知的な喜びもなく生きている。すなわち東洋的怠惰のなかに私はある。

この世は不可知であるから、結局なにかを知った、なにかを学んだということに大した意味があるわけではない。

一般的な意味での「知識」とはプラグマティックなものでしかない。それはたしかに実用的であるから、人間にとって必要なものではあるけども、なにか超越的な役割を与えられるものではないのだろう。

「世界は認識可能である」という人間の倒錯的な思い上がりが、人間の不幸を生みだした。なにしろ、人間の理解と記述によれば、この世はどう考えても不幸そのものだからである。

ところが、「世界は認識不可能である」という態度をとると、生きていくことは、不幸ではなくなる。「私は不幸だ」という言表は、「世界は認識可能である」という前提から生まれている。なぜなら、世界が認識不可能であれば、「自分が幸福か不幸か」という幸福度の計算も不可能だからである。

そういうわけで、幸福・不幸という命題は、世人の大きな関心のもとであると同じに、哲学の主要なテーマでもあるのだけど、それは万人にとって「解なし」とすれば良いのではないかと思う。

「私は不幸だ」と嘆く人間も、「私は幸福だ」と喜んでいる人間も、嘘くさいものだ。この世でもっとも不幸な人間とはだれだろうか?また幸福な人間は?そんな人間が果たしてあるだろうか。その両方とも、痴愚ではないのか。

ギーターでは、「成功と失敗を同一のものとして、行為に専心せよ」というテーゼがいろいろな表現で展開されるけども、行為に専心している人間は決して、自分は幸福か、不幸かなどと悩まないものだろう。

人間はただ行為のなかにあるべきであり、自分の行為をどうこう考えてはならないということだろう。

2 件のコメント:

  1.  幸福の定義とは何か?という問題について考えるとき、認識的差異が土台になっていることが一般的です。それは他の生物に比べ身体的な優位性をそれほど持たなかった人間が獲得した外界への適応能力に他ならず、火の使用・武器の使用・農具の開発・村、里、国の設立などはすべてこの差異への認識があるからこそ成り立ったと言えます。さらに差異を認識するだけでなく、その差を自分にとって、もっと環境的優位な状態にしたいという認識に基づき人間は発展してきたといえます。
     
     つまり、「人間はただ行為のなかにあるべき」という「~べき」という表現は、認識的なな差異を無くし幸福や不幸という観点から物事をとらえることが通例だがという前置きにつながり、実はそれでは駄目なんだよという論の展開になるわけですが、結局人間という種は幸福追求のために今の環境をより理解し改善しようという生き物なので、なかなかうまくいかないのですね。

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  2. 上のコメントをしたものです。大きく間違えた部分を訂正します。
    「認識的なな差異を無くし」ではなく、「認識的な差異にとらわれ」です。申し訳ありません。

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