12.16.2015

不幸の発明

生活が、たいへんで、こうして静かに物を書くということができないでいる。

昨日はひさしぶり読書ができたので、それは良い体験だった。昔好きだった音楽を、Youtubeで聴いたら、当時の昂揚感や鋭い感覚のようなものを、取り戻すことができたように思う。

考えてみれば、学生時代は、一日4時間くらいは平気で読書していたし、土日などは、5,6冊の本を背負って大学へ向かい、情報室や空き講義室で一日読書という生活もしていた。

あの頃は、時間が潤沢にあったのだ。

いまでは、私の生活の工夫もいけないのかもしれないが、私の私生活は、少しずつボロボロになっていっているようで、その証拠に、せっかくの一戸建てが、荒れ果てて、部屋のなかもまったく汚い、ゴミ袋が溜まっているという状態だ。

なにせ、時間がない。忙しいのだ、私は。

生活の愚痴はこれくらいにとどめたい。



さいきん自分のなかで、「不幸とはなにか」という問題を考えているのだけど、おそらく不幸と、理性とは、セットであると考えている。従って理性的に世界を俯瞰してみれば、世界には不幸しかない。

われわれの生活を考えてみても、どんなバカな人間でも、不幸な状況に陥れば、とたんに理性的になる。がんになったとか、嫁が浮気したとか、権利が侵害されているとか。そういうときに、人間はのんびりと無思考に生きることを辞め、極度に理性的に物事を処理しはじめる。

もともと、人間の生活が充足しており、そこに危機的状況がなければ、ひとは理性的になどなりえない。理性とはひとつの道具でしかない。したがって、なんら支障なく生きている人間は、彼はたしかに痴愚なのだが、そうであることは当然なのである。

理性の限界とは、こういうところにある。理性に立脚している以上、人間は幸福にはなれないのである。幸福とは、理性を手放すことにあるからだ(理性では幸福を捉えられない。理性は、不幸をいくらでも数え上げることができる。しかし、幸福については、ただ「不幸の不在」と言うしかない)。

しかし、理性を手放すことは、ほとんどの西洋人には難しいことである。それは、サルトルの「嘔吐」に見られるように、それは吐き気を伴うもの、ひどいめまいを感じるものであり、生々しい無加工の生に対峙しなければならず、大なり小なり困難を伴うのである。

これが、西洋を支配したロゴスの呪いであると言えるのかもしれない。もっともこれは日本でも例外ではない。私も理性に見切りをつけたときに、上のような悪寒Nauseeを感じたからである。

で、上のような悪寒に最近あったのだけど、東洋思想はそこからさらに次の段階を用意しているらしい。いま、井筒センセーの東洋思想の本を読んでいるので、また勉強したいと思っている。


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