12.19.2015

東洋への憧れ

まどろんだような状態が続いている。痴呆老人のようでもある。環境に私は抵抗しなくなった。また、慣性を捻じまげるようなこともしなくなった。いったん、理性に限界があることを知ると、このようなアパシーに陥ってしまうものらしい。

なぜならば、書かれたもの、記述されたものに、そこまで価値があるわけではないからである。いわば、本当に大切なこと、真理に近しいことは記述不可能であり、その点、キリストもソクラテスもなにか執筆にいそしんだということがないことからもわかる。

ひとはある程度、智慧を身につけてしまえば、あとはもう本を読むことや書くことにも興味を引かないのかもしれない。私は、強迫的になにかを書いてきたけども、それらは何の意味もなかった。ただ私は心の空漠さを埋めるために、なんらかの記述で詰めこむ必要があったというわけである。

そういうわけで、もし心が充足してしまうのであれば、ひとは一個のリンゴを前にして、それに満足してしまうのだろう。べつに、哲学者の本とか、難解な学術書が必要なわけではない。リンゴ一個に、すべてが記述されているのである。

と、こういう禅じみたことを考えている。いったい、この科学全盛の時代において、東洋思想の奥深さは、底知れない。

読むことに倦んではいるけども、やはり直截に響いてくる文章というのはあるわけで、大部分の小説に心を惹かれないけど、詩的な表現に満ちた小説とかは、ぜひ読みたいと思っている。また、しばらく東洋思想について学びたいと思っている。



それにしても、私の日常は、うんざりする類のものだ。早く休みが、欲しい。本を読むことの意味は、じっと座って、精神を落ち着かせるためでもある。

私はおよそ今の仕事に向いているとは言えないが、それでも9か月も働けば、慣れてくる。労働に私は適応する。人間、どんな環境でも慣れてしまうものだ。

仕事それ自体に、高尚も何もない。が、たぶん工場のような労働は、ヴェイユの労働日記にあったように、非人間的で、過酷なものだと思う。また、残業が5時間とか平気であるような仕事は、私であれば潰れてしまうだろう。

一般的な仕事であれば、私はそつなくこなすことができると思う。私は、相変わらず、ミスが多く、また仕事への熱意もないが、そういう私に対して、周囲も「慣れてきた」ようで、別段悪意もなく、私をそういう人間として扱ってくれるので、やりやすい。

ただ、私はやはり、こういう仕事をして、一生を終えるという風にはあまり考えたくない。が、この九か月で、こういうふうな生活の繰り返しで終える人生の人の気持ちを少し理解した。それは思っていたよりも、悪いものではないと思う。悪くはないが、よくもない。そして快適であると思う。

おもしろみのない仕事でも、繰り返していけば、経験が蓄積すれば、そこに何かが見えてくる。それは、理性的にわかるものではない。それは、世界との親和とも言える。環境への肉薄であり、自己の溶出であり、理性の超越であり、主体の喪失である。だいたい、芸術でもスポーツでも、この領域に到達しなければならない。

だから、もともと理性の限界というのはあるわけで、そこで非理性としての狂気に、私は何年も興味・関心を持っていた。私が半狂人という理由もあったが。さいきんは、初めから人間には理性も狂気もあるのであり、理性だけを信奉するようになった西洋的思想が、人間に不幸をもたらしている、というふうに考えている。

理性的な世界とは、「AはAである」という定義づけが可能な世界である。東洋ではこれは否定される。「Aは無である」あるいは、「Aはすべてである」という解が可能になる。これは、西洋合理主義の否定であり、科学全般の否定でもある。

こういうおもしろい世界が、東洋思想である。


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