12.02.2015

空白と不安

認識も行き着いてしまえば、寄る辺のない不安だけが残る。

ある肯定的なものに憧れを抱き、飛び立とうとする瞬間、あるいはある誤謬を正そうと立ち上がった瞬間に、その「目的」は消えてしまい、踏ん張るための「地面」もまた、消えてしまった。

いままでは、目的が様変わりしたり、消えてしまったりということはあった。しかし、地面が消えてしまうことはなかった。いままでは、ある目的にたどり着いたあとも、帰る場所があった。それが、私はまったくの中空に放り出されてしまった。私はどうしていいかわからないでいる。

天でもなく、地でもなく、肯定でも否定でもない、宙ぶらりんの余白に、私は今立っている。

この漠然とした、不快感、居心地の悪さ――は、別段嘆くほどの絶望ではないのだが、ただ、たぶん永遠に続くだろうという予感はしている。不安感が永遠に続くだろうという確信があり、その確信は依然不安である。

そういうわけなので、もうあらゆる哲学とか神学は皮相的にしか感じられなくなる、かもしれない。たぶん科学とか、医学とか、政治とか、そういう雑多な物事も、私にとってはどこか遠くの事件や、外国の風習に近いものにしか感じられないだろうと思う。

私が求めるとすれば、私と同じような寄る辺のなさ、不安のなかにいる人々の思想に触れることである。それは真理探求でもなんでもなく、ただの慰撫、対症療法でしかないのだが――そうしなければ私は不安に押しつぶされてしまうだろう。

真理とか、正義のような概念がまだ個人のなかに生きていれば、ひとは拷問だろうと、孤独だろうと、いくらでも耐えられるだろう。しかしこれらの価値観がなくなってしまえば、真の不安のなかでは、ただ他者のみが救いになるのだと思う。

真の不安は、存在の悲劇ではなく、むしろ悲劇のないことにある。

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