12.22.2015

右翼と左翼

昨日は小説にケチをつけてみた。小説とは近代的精神の産物でしかないと。私は、近代的なものを最近否定しはじめている。それは、個人主義とか、民主主義のようなものである。

大江健三郎がそうであるように、小説とは、左翼の分野である。一般的に、作家や教授のような知的インテリは左翼になりやすい。もっとも、右翼で小説家もいる。その例が三島由紀夫とか、石原慎太郎である。しかし、石原の絵に描いたような右翼的価値観と比べれば、三島由紀夫のそれは右翼という枠を超越しているように思う。そして石原はけっきょくは小説家というよりも政治家であり、そのように考えると、右翼と小説家は根本的に相容れないものと私は思っている。

というのも、小説家は極めて個人主義的であり、その個人主義的価値観は、根底で民主主義の肯定やリベラリズムと相通じる。小説は絵画などと同じくほぼ個人としての仕事であるから、民族主義・集団主義的な価値観とは自然に反発するわけだ。左翼的思想は、このように「自由な個人」を軸として出発する。

一方で、右翼思想は血縁的地縁的関係を重視する。親兄弟や、地域の住民がいて、私がいる、というわけだ。右翼がナショナリズムに陥りやすいのは、親兄弟から地域の住民と広げていくと、国家というひとつのシンボリックなメタファーに行き着くからである。(それにしても、「nation=国家」とはじつに日本的な訳語だ。「国の家」とは)

現今のような小説が生まれたのは、個人主義が誕生してからだった。個人主義も小説も、近代以降の産物である。

これもフーコーからの受け売りだと思うが、小説は、近代以前にもあったが、それは個人で楽しむものではなかった。朗読して、みなで楽しむものだった。たとえば、神話を語る老婆の声に、村の住民が楽しむように。

それが、個人でひそかに味わうものになった。たとえば、われわれは「人間失格」や「こころ」を朗読して読もうとは思わないわけである。そんなことをすれば台無しになる。だから、われわれは孤独のなかで、著者との対話を、ひっそりと楽しむわけである。

左翼的人間は、切り離された主体として生きる。それは必然、孤独を伴い、苦しい世界を生きることになる。左翼的人間は、こういう。私は苦痛によって研ぎ澄まされている。私は、認識者だ。私は聡い。

右翼的人間は、集団の血縁的関係のなかで生きる。当然、痴愚となる。私はバカだ、でも幸せだ。みな私を理解し、私もみなを理解している。私はバカだが、私は幸福である。

左翼か右翼か?とは、不幸か、バカか――という選択だけれども、結局左翼という存在が、近代以降のものであるということを考えると、それは一時的な痙攣に過ぎないとも言える。それは例えば、学生運動に明け暮れた学生諸氏が、いまでは大企業の重鎮として組織に組み込まれているのと同様である。

だから私は、右翼的価値観を多少肯定するようになった。少し前であれば、私はたしかに、個人主義や法治主義を肯定していた左翼的人間だった。だが次第に、私は自分の心中を深く探ると、他者が見えてくるように思えてきたのである。つまり、私は「個人」であることは不可能で、私のすべての思想や思惟には、他者が絡んでくることに気づいたのである。

ちなみに、この左翼・右翼という関係は、音楽にも似てくると思う。私はジャズが好きだが、ジャズも西洋的な音楽である。もちろん音楽のルーツとしてアフリカン・アメリカンの血筋もあるし、ほぼアフリカンな・あるいは東洋的なジャズもあると思うが、一般的な世間に流布しているジャズ音楽は、西洋的である。たぶん、宗教的な事情もあるのだと思うが。

で、私はだいたい外国人のジャズしか聴かない。日本人がやっても、それはなんだか無理を感じるからだ。上原ひろみとか、そういう、「海外で認められている一流プレイヤー」はいる。でも、やはり根底で、そぐわないように感じてしまう。「東洋人が無理して西洋音楽などやらねばよいのに」と。実のところ、私もジャズを演奏するから、このあたりの葛藤はずいぶん感じた。

私が知る、日系人で西洋音楽に卓越した人物と言えば内田光子がいる。彼女はクラシック畑のピアニストだが。やはりこういう人は、「私はイギリス人であり、日本人ではない」と言っている。私は、彼女はしっかりと芸術というものをわかっているのだと思う。彼女が日本人でありつつ、あのような演奏ができるものではないと思う。これはあくまで感覚だが。

上に述べたように、日本人が個人主義的な主張をすると、私は違和感を持つ。ありていに言えば、なんだか子どもの発言のように思えるのである。私が半年前には、同じ主張をしていたにも関わらず。

例えば、「私はサービス残業をしたくない」と新入社員が言う。それに対して、「お前は何もわかっていない」とベテラン社員が言う。私は後者の価値観を、身につけたというわけである。

世の中には、大きく分けると、東洋的な思想と西洋的な思想がある。私はなんだか、西洋的思想に限界を感じてしまうのである(科学にももうあまり魅力を感じない)。それで、東洋的思想に魅力を感じると、やはり、集団主義的、民族主義的な――非論理の世界に価値を見出してしまうのである。

このように、短期のうちに思想をころころ変える私は、たぶん影響されやすい性格なのだろうと思う。井筒センセーの本が、だいぶ良いのだ。

今日もだいぶ酔っぱらった。明日が休みなので、たくさん書いた。

1 件のコメント:

  1.  人は何に感動するのか?つまり、それは「ころころ変わってしまう」からこそ「決して変わらないもの」に感動するのでしょう。それは、絶対に自分にはできないことであり、本当は何としても実現したいものでもあるからです。例えば、最近のドラマでは「半沢直樹」「下町ロケット」「コウノドリ」など常にギリギリのプレッシャーにさらされながらも、自らの信念や愛や能力によって現状を打開し、自分よりも大きなもの「権力」・「世間」・「死」といったものに抗おうとする者たちに感動するのです。
     これは逆説的には、人間は怠惰で移り気であることを示しているのであり社会とはそういった人たちを守るために存在しているのです。例えば、東京電力に入社する前は原子力発電の問題について、中立もしくは疑問を持っていたような技術者も東京電力に入社した後は、決して異を唱えて上司や上役を論破し状況を変えようとはしません。彼らには守るべきものがあり、守るべきものをもつものは自分の気持ちより守るべきものを優先しようとするからです。
     しかし、考えてみれば先のことなどは誰にもわからないのですからそういった移り気な人たちを責めることはできません。逆にその人たち「誠実ではない」とか「向上心がない」などと言っている人達にも当然守るべきものは存在し、それを守るために全く違う思想を持った人におもねらなければならない場面はありえるのです。つまり、醜さや弱さ、冷酷さや裏切りなどを行使せずに生きていくことは大変に困難であると言えるわけです。

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