12.23.2015

東洋への憧れ2

たぶん、一年前の私が今の私を見れば、こう思うだろう。私は、こうなることを望んでいない。何かのまちがいだ、と。

理想を追いかけていたが、理想を追い越してしまった。

酒飲みの幸福と、不幸と。しかし、酒飲みはただ酒飲みになるよう生まれているのであって、それが不幸とか幸福とか言えるものではない。

幸福とか、不幸という線引きは、だれによってもたらされるか。私はただ生きているだけなのに。

私の買ったバイクは、かなりひどいボロであった。初めは苛立ち、買ったことを後悔したが、数日で慣れた。いまは淡々とメンテの準備を進めている。

私が仮に不慮の事故で片腕を失うとする。私は、自分の不幸を呪うだろう。その期間は数日では足りず、数か月、数年に及ぶかもしれない。しかし、不幸に対する執着から離れれば、あとは生きていくだけである。

実際に、私の精神はジャンク品みたいなものだった。ただ、ジャンクなバイクを治そうという私がいるように、ジャンク品も無価値ではない。

ギリシャの哲学者も、幸福とはなにか、と考えた。なにが不幸でなにが幸福か。しかし、こうした「分類分け」の精神が、精神の病を生んだ。

生とは、一つである。同じようなことを、西洋人も考えた。「存在とは何か」と。西洋人はここで、存在という、未分化な領域に対する認識を初めてしたことになる。

存在の根源を辿ると、絶対的な「一」が浮かんでくる。それは定義不可能な領域、肯定も否定も不可能な領域。すべてが混在したカオス。無であり、有であるという矛盾。

これらを突き詰めていくと、結局は、東洋思想に帰らざるを得なくなる。

なぜというに、サルトルの実存主義がブームになったのが20世紀。この数千年前に、東洋思想はその領域を超越していたからである(有→無→有)。

こう考えると、西洋はたしかに科学技術では目覚ましい発展を遂げたけども、哲学においてはあまりにプラトニズムに縛られすぎたのだと思う(そしてそれを打破したのがニーチェ)。

仏教的価値観では、(私の理解では)プラトニズムは世俗的価値観として喝破されている。それは世界の真相を示しているわけではなく、迷妄、功利的なものだと。

そういうわけで、東洋思想をもっと突き詰めていきたいと思う。

正直、東洋思想はノーマークだった。西洋思想で何とかなると考えていた。なぜなら西洋思想は進歩的であり、権威的で華やかだったからである。東洋思想は、今、まるで進展していないように見える。この東洋の沈黙は、もしかしたら、行き着いた、語りつくしたからかもしれない。

そういうわけで東洋的な知の源泉で、得られるものがあればいいと思っている。もしかしたら、また別の失望があるだけかもしれないが

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