12.06.2015

ロゴス教

夜に記事を書くと、どうもダメな代物になる。

昨日のそれは生禅的なひらめきである。でも、やはり個人的には、大きな事件だった。合理主義から脱し切ったような。

ある宗教の洗脳から目覚めたような気分だ。それは、実際、恐ろしいことでもある。洗脳のなかにあることは、安心と快適をもたらすものだ。また答えのない世界に戻ってゆくということ。

ホーフマンスタールは27歳で精神的な危機を迎え、そこで作風をがらりと変えた。

「なにかを別のものと関連付けて考えたり話したりする能力がまったくなくなってしまった」「ある判断を表明するためにはいずれにせよ口に出さざるを得ない抽象的な言葉が、口の中で腐れ茸のように崩れてしまう」(「チャンドス卿の手紙」)

そうして、ホーフマンスタールは55歳で死んだ。ということは、ちょうど人生の半分のところで、彼は大きく転換したことになる。

実のところ私も上のような感情を持っている。何かを語るということの意味を、考えて、それが有意味なのかどうか、ということを考えて、躊躇してしまう。

ある哲学的命題を語るということ。何かを証明するということ。本質を前提にするということ。その前提となっているロゴスが、私にはなにか信じられないものになってしまった。

ある対象とある対象を区別するもの、例えばリンゴとみかんを区別するような働きが、私から失われた。もっとも、私にとってみかんはみかんであり、リンゴはリンゴだけれども。

しかし、みかんもリンゴも、「より大きい包括的な何か」に統合されてしまったのであり、私が「それはリンゴではなく、みかんだ」と言うときの真実性とは、その本質的には、「誤」であることになる。

もっとも、大方の人間にとって、みかんはリンゴではないのだから、私の発言は「真」であることになる。偏屈な人間や狂人でなければ、およそ万人が、それを認めてくれると思う。

しかしほとんどの人間に通じると言っても、私のなかでは、誤であるという確信がある。これは、論理ではなく、感覚的なレベルのことなのだが。

こういう「何かと何かを分かつ区分」のようなものが、白々しく見えてきているのが私の現状なのである。例えば幸福と不幸のような区分、善と悪のような区分、これらが「世俗的な迷妄」のように思えてきている。

このことが、私を深い孤独につき落とすと同時に、永続的ともいえる温かさを与える。一面では私は世間的な公理からつまはじきものになったアウトサイダーである。科学も、ある種の宗教も、およそそういった「確からしい認識」、大地的な基盤を失っている。

しかしリンゴとみかんが同一であるならば、世界と私という区分も、取り払われるかもしれない。この意味で、私は完全に世界と融和することができるのだから、私はもはや、孤独者であるなどありえないのである。


というわけで、ずいぶんアホくさいスピリチュアルを展開してしまった。

現実の私は、貯金が200万円を超えたので、なにかバイクを買おうと思っている。200㏄のバイクで、二日で1000kmを走ったことがあるが、もうそんな思いはしたくない。大型バイクの中古を検討中……。

貯金が増えていくにつれ、私の腹の脂肪も増えていった。まだ「痩せ型」の部類だが、常識的なレベルの脂肪がついてきたと言えるだろう。

貯金も脂肪も似たようなもので、あればあるほど、身動きは取りづらくなり、快適に、満足してしまうものだ。じっさい、去年に比べて冬場がだいぶ楽になった。

金はもういいから、何か熱中できるような仕事をしたいものだ。とりあえずの生活のためにしている仕事というのは、悲惨である。かといって、読書も、最近は飽きてきた。私は読書だけの生活で、何年も過ごせると思っていたが、読書体験を重ねるうちに、もっと重要なことがあるのではないかと思い始めた。

無心になってできること、といえば、こうやって何かを書いていくことと、楽器をやることと、昔であれば、絵を描くことが好きだったのだが、現状ではどれも中途半端だ。そもそもこういったことで、金を稼いだり賞を狙うということは、あまりしたくないという気がする。

私の生活におけるもっとも根本的な営みに、他人の介入を許したくないという、神経症的な感情がある。そうだから、コメントを書いてくれている人には悪いのだが、コメントはほとんど読んでいない。別にコメントの内容が嫌なのではなく、コメントそのものが私は嫌なのだ。

もっとも気が変わるときがあって、例えば本当に心細くなったときには、読んで慰められるということもあるけど。

私は生来臆病なので、他人の評価というものにひどく鋭敏なのである。だから、他人が見ているとそれだけで何もかも台無しになる、ということが私の人生の常だった。とくにそれは音楽で顕著だった。

無心になれることといえば、あとひとつ、バイクがあった。私はスポーツがことごとく苦手だったのだが、バイクのスポーツ走行は得意である。大部分の人よりもうまく走れるという自信がある。

ちなみにバイクのメンテナンスは本当に苦手で、いい加減であり、性急であるために、うまく行った試しがほとんどない。メンテナンス中はつねにいらだっているように思う。

性格としては神経質なのに、こういったところではいい加減なので、人からは奇異に思われるのだが、神経症の人間ならわかるだろうが――神経質も長く続くと、ある事柄についてはいい加減にする癖がついてくる。すべての事柄に神経質であっては、疲れて死んでしまうだろう。これも適応の一種だと思う。

私の本当に好きなことだけをしていきたいと思っている。

金儲けも、割と好きな方である。私は同年代と比べれば高収入な方だが、それというのも金に対する執着がひとよりも強いからである。好きというか、もともとが貧乏だったので、金を失う恐怖の方が強いかもしれない。貧乏ゆえの悲しい執着と言えるだろう。

私の大学の友人たちは、みな金持ちであったから、その金に対する執着のなさに、私は憧れたことがある。例えば彼らは、自動販売機で好きなだけジュースを買うことができたし、半額ではない弁当を買うことができたし、彼らにとって食堂とは豚汁とライスを注文するところではなく、ありとあらゆる食べ物が彼らを待ち受けている場だったのだ。

だから彼らに比べれば、私の現在の収入が高いということも、必然であると思う。彼らは好きな仕事に就くことができたのだ。金のためではなく、したいことを。

ただまあ最近は仕事に慣れてきて、ある程度楽しんで行うことができているので、それはそれでよいのかもしれない。

私はこうならなければならない、とか、こうすべきだ、という強迫的な感情は、あまり、なくなってしまった。それは上に述べたような「区分の消失」のせいでもある。たとえば高卒の同僚と談話するときも、東大名誉教授の哲学書を読むことも、大した差はないと最近は感じている。

生は生であり、生がないがしろにされることはないのであり、例えば芸術家にとって何も生み出せないスランプはつきものだが、そういう時期こそ彼の創作に必要な期間であったりする。そういうことと似ている。

だから私は東洋人的な楽観主義で、今後の人生をやりくりしていけばいいと思っている。父権的なセム系の信仰をもつ人々は、神に気に入られなければ地獄が待っているというような、強迫的感情を持っている。また、私も同様の感情を持っていた。

いまは、いろんなことがどうでもよいことのように思えてきている。休日の海沿いをバイクで走って、野良猫を撫でていると、それが世界であり、それが生のすべてであるというふうに感じる。


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