12.07.2015

ファミリア

仕事して、酒を飲んで、寝る。起きたら、ネットでニュースでも見て、仕事へ行く。仕事中は、もくもくと、仕事をする。

月火水木金土日と、何も引っかかりもなく一生を過ごすことができれば、それは幸せなのだけど。幸せに違いない。仕事ばかりして、疑問も持たず、生きていくことは、幸せだろう。

そういう人間は私はバカなのだと思っていた。バカゆえに悩みがないのだろうと。そのときの私にとって、生とは苦痛そのものだった。そして幸福は迷妄だったわけだ。

愛別離苦だのなんだの、四苦八苦が人生には用意されているのだと。目を開けば不幸が満ちているから、幸福とは瞬きの瞬間、あるいは意図的に目を閉じているに過ぎないのだと。

しかし考えてみれば、不幸と、幸福の境はなんだろうか。ひとは幸福を追い求める。不幸を嫌う。でも、その差はどこからくるのか。

こういう区分を、いったんないものと仮定してみると、生のままの生が、新しい認識が訪れる。いわば有でも無でもない領域、グロテスクでみだらな領域が見えてくる。

幸福も不幸もない。すべてはひとしく○○である――

すべては運命である。すべては神である。あるいは、すべては無である。いずれにあっても、人間が幸福か不幸かという問題に悩まされることはなくなるわけだ。

パスカルの言ったように、人間は矛盾存在である、と。偉大であり悲惨。幸福であり不幸だと。人間に人間や生は定義不可能といったところか。

我々のあらゆる認識は生に内包されているのだから、生を語ることは不可能だ。ロゴス主義の失敗は、こうした逆立ちにある。



私は西洋イデオロギーの下っ端になることを辞めて、東洋イデオロギーの下っ端として働いている。

かつて西洋イデオロギーのなかで働いていたときは、私は極端な個人主義に走り、論理主義に走り、たとえば車線を踏み越えるやつには容赦なくクラクションを鳴らしたし、毎日強いられるサービス残業には虫唾が走る思いであった。

東洋イデオロギーに移転した今では、すべては「家族的」になった。私はひとびとを許すことになったし、談話の際に笑うようになった。

私は、日本という社会は、ファミリーという言葉で理解できると思う。昔、冴えない社会学者がこの日本社会を「甘え」というタームで説明しようとしたことがあったが、私としては、ファミリーの方が適切だと感じる。

というのも、「甘え」という言葉では、日本人の時折見せる冷淡さ、狡猾さ、攻撃性などが説明できないと思うからだ。

ファミリー的なのは、トップから末端までに行きわたる日本の支配構造であり、皇室、政治、企業、学校など国内の社会的・集団的領域すべてにわたって、この血縁的空気感が生きていると感じる。

もともと日本がファミリー的であると感じたのは、ある外国人が「日本の政治はヤクザ的だ」と言ったことにある。

たしかに、ヤクザも血縁を重視する。実際に血がつながっているわけではないが、「杯を交わす」などの儀式は、まるで結婚式のようでもある。また日本の政治も、超法規的手段を(割とためらいなく)簡単に取るなど、ヤクザ的であるし……実際政治家とヤクザが蜜月であることは公然の秘密である。

現実には日本人は分断されていて、個人主義的だ、という意見も聞かれるかもしれないが、どんな人間でも、会社であったり、あるいは町内会であったり……そうした場で血縁的な(ときには排他的な)関係を持つことが事実上強いられている。

そこから排除された人間は、強制的に是正されるか、あるいは存在しないものとして扱われる。例えばムーミンのアニメでは、ムーミン一家のパーティで、輪に入らずにひとりで食事をとる「おしゃまさん」や「スナフキン」が描かれるが、サザエさんのような日本のアニメでは、そういう描写はない。個人主義は存在せず、すべてが家族的な繋がりのなかでどう役割を演じるかが描かれる。

個人主義とは、世界に個人が立脚するが、家族主義では、家族に主体が立脚するのである。

家族的な関係は、引きこもりにも可能である。今はネットという場が、そういうファミリー形成に役立っている。例えば、オタク趣味は、オタクというカテゴリーで家族的な慣れあいが見られる。それは、単なる有志の集団、コミュニティであるというよりは、血縁的関係であるように見える。

それは対外的な行動において顕著であるように思う。たとえば自己に不利益な法案とか、攻撃的な言論に対しては、狂信的とも思える攻撃的な行動をとる。その法案が正しいかとか、その言論が正しいかに関係なく、きわめてプリミティブに攻撃行動をとるのである。

この点も、ヤクザ=ファミリーとして理解できる。オタクはヤクザ的だと私は思う。

長々と書いたが、ぜんぜんまとまらないのでもう辞めたい。なんだかすべて中学生でも理解している当たり前のことを書いている気がする。「家族経営」なんて何度も語りつくされていることだし。

ともあれ、上の知識があることで私は生きやすくなった。私にとって日本人の行動はいろいろと不可解なのだけど、「ああ、この人は私のことを『他人』とは思っていないのだな。何か同族的、血縁的な関係だと考えているのだな」と推測することによって、ある程度理解可能になった。

それは、単に友好的な関係を求められたときだけでなく、例えば恫喝されたり、理不尽な要求をされたときにも、この人は、私を切り離された個人ではなく、血縁的存在だと思っているのだ、と、そう理解することができるようになった。

たとえば原発事故の責任をだれもとらなくても、それはよいのである。「まあ、いいじゃないか。」で済む。大企業の粉飾決算も、「いいじゃないか」。そして、国民も「まあいっか」と思っている。

このあたりの空気感は、たぶん西洋人にはまるで理解できないものだと思う。私も最近まで消化できずに苦しんだ。

しかし、日本は依然西洋国でなく、西洋国基準の「先進国」でもなく(つまり民主主義でもなく、法治国家でもなく)、そういう要素を外面的には取り入れながら、内面的なイデオロギーを保持している、複雑な国家なのだ、ということでいったんは理解した。

たぶん、こういう家族的な国家構造の方が、ばらばらの個人が集まった国より強いはずだ。日本の政治は一時の例外を除けば、ずっとアメリカのポチをやっているから、アメリカによってずいぶん弱体化されているけども、そうした障壁がなければアメリカよりも強い国になっていただろう、などと妄想する。

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