12.08.2015

分裂

こうしてくだらないことばかり書いて死んでいくのがまあ妥当な人生だという気がする。

私の神経症を考えてみるとどうもこれは成功を妨げるものであるらしい。

普通、神経症は完璧主義と言われるが、私は完璧主義であるがゆえに物事を完成させらない。ふつうの人が80で良しとするところを、私は100を求めるがゆえに、かえって60で終了させるのである。

もしかすれば、私は90の仕事ができるのかもしれないのに、私は100を求めると終わりない苦しみが待っていることを知っているから、その適応として、反作用的にずぼらな成果をあげるという始末である。

こうして書かれている駄文も、もし100の注力をして、完全に練り上げたら、妙な哲学論考や、詩文になるかもしれないのだが、私はそういう努力をして「世間一般の評価を受ける」ことに対して、本能的な嫌悪と恐怖があるらしい。

ジジェクによれば、女性のヒステリー患者というのは、ある女性的な演出表現をするのだが、彼女の自己に対するまなざしは、男性的視点、多くの場合父親のものと同化しているのだと。このずれ。
強迫神経症者の場合、このずれは極大になる。「構成された」想像的・現象的次元では、彼はもちろん自分の強迫的行為のマゾヒスティックな論理に囚われており、彼は自分を辱め、自分の成功を妨げ、わざと自分が失敗するように仕向ける。だが、重要な問いはここでもこうだ――悪意ある超自我の眼差しはどこにあるのか。彼はそのために自分を辱め、それがあるがゆえにわざと失敗することが喜びをもたらすのだ。このずれをうまく表現するには、「対他」/「対自」というヘーゲル的な対の助けを借りるのがいいだろう。ヒステリー性神経症者は、自分は他者のために(対他的に)ある役割を演じているのだと感じている。想像的同一化は彼の「対他存在」である。そして、精神分析が達成しなければならない決定的な変化は、彼は他者のためにある役割を演じているが、その他者とは彼自身なのだということ、つまり彼の「対他存在」は「即自存在」なのだということを、彼に理解させることである。なぜなら、彼はあるまなざしのために自分の役割を演じているのだが、彼自身はすでにそのまなざしに象徴的に同一化しているのだから。(「イデオロギーの崇高な対象」)

わかったようなわからない文章を書くおっさんだと思う。

ヒステリー患者は、父親の視点に同化している。父親の視点で自己のふるまいを評価し、それを承認する。

神経症患者は、自分の視点に同化している(本人は、ある他者のためと感じていても)。自分の視点で自己のふるまいを評価し、それを承認する。

なんだかすごい世界だな、神経症者は。自己が自己のためにふるまい、自己が自己の基準で承認する。そのサイクルというわけだ。

ヒステリー発作は説明しやすい。例えば父親との関係がうまく行かず、それにトラウマがあるとすれば、自分が父親の視線に(無意識的にせよ)同化し、「ふるまう自己」と「まなざしとしての自己」が乖離し、このずれが病的なヒステリーを起こす、ということは感覚的に理解できる。

このとき、「ふるまう自己」は対象化され、「まなざしとしての自己」は父親と同一化しているのだから、なるほど病的な状態ではある。

しかし神経症者はだいぶひねくれている。「自己は他者のためにふるまう」のだが、その他者とは実は「自分自身」なのであり、象徴的な「他者」の顔をした自己が、自分にまなざしを向ける。

この関係はぞっとするようだ。父親と娘の関係がうまくいかないならよくある話としてわかるけど、神経症者は自己と自己が断絶しているのである。ある個人のなかで、自己と自己が分裂している。なるほどそんな人間を見れば、だれもがぞっとするに違いない(実際私はよく「ぞっと」されたが)。ある個人のなかで、ぐるぐると叱責と演技が連続しているのである。

神経症の病理の原因とは、自己が他者の顔をしはじめることにあるのだろう。「対他存在のためにふるまう自己」は、対他存在がまさか自己であるなどとは思っていない。

そうだから、神経症的な症状は消えないのである。それは他者に向けられていると思っていても、結局は他者にはまったく効果のない、不可解な行為にしか思われないからである。それゆえ、神経症者は救いがない。他者のためにふるまっているのにも関わらず、それは他者には決して届かず、そして他者の顔をした「まなざしとしての自己」は、「ふるまう自己」を決して許すことがないからである。

しかしまあ、私の過去の感覚的世界を俯瞰してみると、そんなものだったかもしれない、と思う。自己が自己を許せず、私はつねに演じてきたし、つねに他者のために行動してきたようにも思う。しかし、私に罰を与える他者もまた、自己だったのである。

というわけで、私はまたくだらない考えを述べた。私は永遠にくだらない失敗作を生み出すしかないという気がするし、それはそれでよいのだ、と考えたりする。

1 件のコメント:

  1.  自分の行動に対して、他人の目や評価を意識してしまい萎縮したり、否定的になったりすることは社会生活を営む以上多かれ少なかれ誰しもが持つ意識であり、「常識」・「ふつう」・「勝ち、負け」といった尺度も極論すれば自己が作り出した他者存在であり、その尺度を選択しているのは自分だから結局自己認識と行動が解離しているということなのだとすればそれほどわけわからん感じでもないです。
     一方で、メディアや教育の中で構築される価値尺度や評価軸というものは普遍的ではないにもかかわらず存在し、共通コードとして内面化しなければなりません。神経症というのはその社会の共通コードと自己が作り出した他者像との間にズレがあり、その社会の環境のなかではうまく適応ができないが故に精神的な病気として表面化されるのではないでしょうか?
     例えば、LGBTの問題もそれ自体が一つの価値観であり、そもそもの評価としては良いも悪いもないわけですが、神経症的になるのはやはり外面的な尺度に対する非難や否定の恐怖、さらには誰からも承認されないかもしれない孤独や苦しみがあり、なかなか自己の肯定や承認へ向かえないということもあるのではないでしょうか?つまり、不適応の問題とはそうした自己が生み出した他者像による神経症的苦しみもあるでしょうが、そもそも社会の作り出した共通コードに対する恐怖というものとの折り合いがつかないから生じるのではないか?と考えます。

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