12.19.2015

失敗と成功

私は成功しないということがわかった。



私は最近あたらしくバイクを買おうと思って、明日引き取りに行くのだけど、そのバイクは、写真で見る限りではボロボロで、私の生まれた年とたいして変わらない年に作られたバイクである。

それでも、今あるバイクよりは排気量も余裕があるから買った。というのも、以前200ccのバイクで実家に帰ったときに、あまりに辛かったからである。

私の実家も田舎であり、今住んでいるところも田舎だから、うまくすれば都市部の混雑を避けて帰省することができる。もとより世界一高い日本の高速道路に乗る気はないので、下道で帰ることになる。それでも、巡行速度は70~90km/hといったところで、60km/h以上の速度域で悲鳴をあげる今のバイクでは、私も辛いし、バイクも辛いだろうと思う。

なので、買った。このバイクは、私がさいきん購入したデンマーク製の中古デスクの3倍程度の値段であり、また、私が一週間で稼ぐ手取りの給料よりも安い。私はこのバイクの値段が安いのか高いのかわからない。私の一週間分の賃金には、大学の高い学費を払った分も加味しなければならないからである。ともあれ、世間的には、とても安いバイクということになるだろう。

それで、私は、バイクの写真を眺めていて、いろいろなことを考えた。私は、バイクを乗り始めて7年目になるから、ビギナーからベテランの間くらいになると思う。そして、バイク好きと言って間違いない部類の人間だと思う。そういう私が、そんなガラクタのようなバイクを買うことが、滑稽で、信じられないような気がしたのである。

なぜというに、私よりバイクの運転が下手で、メンテ技術も知らず、したがってバイクのメカニズム(literally)も知らない人間の方が、ぴかぴかの、百万円を超えるようなバイクを、ぽんと買ってしまうからである。

話をもとに戻せば、こういった新車を買えるような人間が、世間的な成功者ということで間違いないのだろうと思う。

私が成功できない理由は、私がボロなバイクを買うことと同じである。

そのことに、風呂に入っているときにきづいて、笑ってしまった。

私はボロなバイクを買う。それは、金がないからではない。金はある。そして、バイクが好きではないからではない。7年間、バイクに乗らないということがなかったから。だから、私が求める理想的なバイクとは、まさしくそのボロなバイクなのである。

「私が得られる成功=私が求める成功」とは、おんぼろで、傷だらけで、だれの目にも価値のないものである。それは、初めからくたびれているから、もうくたびれることがない。それは、私にとっても大した価値のないものだから、失っても痛くない。そういうものが、私の真に追い求める成功だということが、わかったのである(これはデンマーク製のデスクも同じ)。

だから、ナントカ賞とか、黄金とか、尊敬とか、そういうものが好きな人は大いにがんばって欲しい。私はそういうものに、関心がないのだ。「失うことが怖いものが欲しくない」という感情が、人にはあるのだ。

そういうわけなので、私がなにか思想家として成功したり、小説家としてヒットするというようなことは、今後起きないことを保証しておこう。なぜなら私はそれを求めていないから。そういう栄誉は、欲しい人に与えるべきだ。また、私のこのブログが大人気になるということもないだろう。そうなったら、私はこのブログを消して、またどこか違うところで始めるだろう。

そういう、成功への執着から離れたので、少し快適な土曜日になった。

1 件のコメント:

  1.  成功を求め、権力を求め、明るく前向きで友達も多い。そんな風になりたいと思わなくもないし、一般的にそれを成功と呼ぶのだろうと思うのですが、それを妬んだり、キラキラした目でその素晴らしさを説いたりする人の言葉を聞くとき私はこう思います。もしそうなるために脳に電極をさして、アドレナリンやセロトニンをコントロールされたとしても同じこと言えるの?と。実際にアメリカや中国では、デザイナーベイビーやBMIの研究を通して、脳の研究をすすめ、人間の意欲や能力を人工的にコントロールしようという試みがなされているらしいのです。
     そこまでして、成功への執着が結実したとして果たしてそれが幸せなのでしょうか?ただし、この疑問も脳の伝達物質のコントロールによって消滅させられてしまえば、幸福だと感じるのでしょうが・・・。

    返信削除