12.05.2015

La Nausée

最近の思想的な変化は私にとって事件であった。

私は物心がつきはじめた五歳児のように、世界に対する了解の作業を手探りで模索しなければならなかった。

大乗仏教的には理性的な物事は世俗的な世界に属するものであり、そうしたものは実態を伴わない迷妄なのだという。

やはり仏教はすごいと思う。キェルケゴール、ニーチェ、ハイデガー、サルトルのような実存主義者が到達した世界を、すでに記述している。やはり人間は進歩などしていなかったのだと思う。理性的世界で我々は理性的に進化しているものの、理性が迷妄ならば、進歩とはなんでもないことになる。

今日は暇だったが、とくに読書もせず一日を過ごした。読むべき本が溜まっている。ヘッセに、ホーフマンスタールに、井筒俊彦。

最近の私は理性的に生きることなく怠惰に生きている。怠惰に生きているといっても、世俗的な意味ではまじめそのものであり、私はよく働き、文句も言わずに、社会貢献している。

いわば生来のものだったクソまじめさを、取り払った。理性に対する信仰とか、理想に対する恋慕を、なくしてしまった。私は手放しのまま、あいまいで、みだらな生の世界にぶちあたって、やはりサルトル同様、「吐き気」に襲われている。

私がこれまで見てきたものは何だったのか。私にとっての世界は何だったか。そういうことを考える。というのも、これまで理性的に世界を見てきたのであり、そしてこれからは理性にすがることはできないのである。理性的に生きていたときもアウトサイダーだったが、今はもっとアウトサイダーだ。表面的ではなく、内的な意味での。なんだか、どんどん行ってはいけない世界に進んでる気がする。深い海に下るような怖さを感じる。

井筒によれば、大乗仏教では一切を無とし、なにか本質的なものを存在しないとしているが、ヴェーダ教では、一切を有とし、すべてを本質的なものとしているという。いずれにしても、東洋思想においては、何か超越的な存在(イデア、純粋形相、神、理性、精神)があって、それ以外の非超越的な存在がある――というような「区別」がない。

こうなると、善悪二元論も、天国も地獄(天と地)も、なにも区別がなくなってしまう。私はニーチェ流に東洋を大地・肉体の領域だと考えていたのだが、東洋思想は、大地的であるのではなかった。そもそも東洋的には、天と地がないのである。「汝それなり」の世界だ。

だから、大地という概念は、西洋的(理性的)世界から見た東洋でしかない。東洋には天国もなく、また地獄もないのである。なぜならそれはひとつであるからである。

考えてみれば西洋人の精神のルーツである古代ギリシャの哲人のテーマは、「徳」であったように思う。何が徳で、何が徳でないか。ここからスタートしているのだから、東洋的哲学とはまるで違う。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神とあった。」。

つまり仏教的価値観では、西洋的な論理詰めの哲学者はまだ「世俗的」なのだと思う。また、科学者たちも世俗的である。そしてキリスト教も、世俗の宗教ということになる。

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