12.27.2015

le Neant

「仏教を知ることなしに、私は虚無(le Neant)に到達した」「そして、この底知れぬ深淵が私を絶望にひきずりこむ」(マラルメの書簡)

何もしようという気がない。

何か一点に向かって努力していたときがあった。そのような情熱はいまは失われた。それは、どのようなことを意味するのか。私は怠惰に負けたのか。それとも、私は情熱を超越したのだろうか。

とがった、神経質な情熱、自分の趣味に合わないものを、はっきりノンと言い切る情熱、のようなものはなくなった。まあ同時に神経症も改善してきたのだが。

なにせ、なにが正しく、なにが間違っているか、など、人間には分かりえないことが分かったからだ。いま、目の前にマグカップがあるが、これが本当に存在するかどうかも私にはわからない。私はそれ持ち上げて、コーヒーの香りを楽しむことができる。けれど、マグカップが存在するかは、依然として未知である。

認識と呼ばれるものは、いずれも、直接になり間接になり生物学的に有益な心的体験である。反対に、そうでないことが確認される判断を、われわれは「誤謬」と呼び、意図的に誤謬に導こうといういっそう悪質なばあいには虚偽と呼ぶ。(マッハ『認識の分析』)

目の前のマグカップのようなことも私には確信が持てないのに、遠く未来のこととか、思想や趣味のことについて、情熱を持つことが可能だろうか。

線を引くことができなくなった。事象の核を見つけることができなくなった。大地の重力を失った。

まあ流れるように生きるしかないということだろう。老子はそんなことを言っていたのかもしれない。

やるべきことはある。今日はバイクのメンテ。部屋掃除。

2 件のコメント:

  1.  例えば明日、大きな災害がやってくるとしても、人間はそれを予測することはできません。蟻は蟻として蜂は蜂としてしか生きられないように、人も人としてしか生きられないのです。しかし、曖昧な世界に対する認識がある時世界の理とリンクした時、役割としての生をある部分においては離れることができます。それが「ユリイカ」であり「悟り」であるわけです。まず、自分を取り巻く環境が認識において非常に不可解かつ限定的なものであることを知り「無知の知」・その上でその認識をより高次のレベルへと引き上げるなんらかの糸口を見つけること「悟り」に至るわけで、当然のことながら人間だけがその方法を理解できるという傲慢な考えからは辿り着けない境地なのではないかとも考えます。
     虚無とはまさに、無いというレベルへのまなざしであり、「無い=認識出来ない」という発想から、では何故無いのか?「あるいは無いという現象は在るという現象とどう違うのか?」へと進むことができるので、情熱が無くなったというより、思考のプロセスを踏んだという理解でいいのではないでしょうか?

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  2.  しかしながら、帰属できるコミュニティや人生におけるこだわりや幸福を持っている黒崎さんにとってこれ以上思索を深めることは、そのコミュニティにおける軋轢を生む可能性も高く、また深淵へと踏み込むにつれ捨てなければならないこだわりも増えていくのではないかとも思われ・・・・・・・・。

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