1.03.2016

合理主義を超える

こころの安寧を見出すことが必要だと考えた。あらゆる事象に囚われることなく、摩擦なくするすると流動的に生きるのである。

そういうふうに生きることは、神経症とは反対の立場にある。神経症とは、不安、執着の病理だからである。単純に、神経症が正反対に振れれば、そこには安寧が見つかるはずである。

じっさい、病気――健常は単純な対立構造にあるのだろうか。病人が健康になるとは、健常の要素を身につけ、病人である要素を捨て去ることなのか?

消化器にできたポリープを摘出すれば、それは治療されたことになる。精神はというと、これは五臓六腑がはっきりしているわけでもないし、「深層心理」だの「無意識」だの区分をつけてみても、それが正しいわけではない。ポリープのようなものは見つけられない。

精神分析は、合理主義による精神への適応といったところだろう。精神はバラバラに刻まれ、解体されねばならなかった。「腑分け」の作業、これが精神にも行われた。

合理主義の精神は、「人間はみな一緒」ということになる。合理主義とは、根本的には命名・定義づけのドグマだからである。「人間はロゴス的な動物である」と定義するとき、これから外れる人間はいない。定義づけとはそのようなものである。

とにかく私が神経症から回復したとしても、私は単なる健常者に落ち込むわけではないと思う。

「健常な人間」なんていうのも果たして存在するのかわからない。狂気のない人間は、狂気を抑圧しているだけだ。私の試みは、狂気を排除することではない。

精神疾患が克服できるとすれば、それはある意味で超越すること、次元を超えることにあるのだと思う。私はこのことを切実に思っている。精神はというと、ポリープを切っておしまいという風にはいかないのである。

合理主義とは、世俗のドグマである。……と言い切ってしまうと、なんだかすごいことを言った気分になる。科学者が沸騰した頭で生涯をかけて探求するほとんどすべて学問は、世俗的な出来事に還元されるのである。これは合理主義の行きわたった現代では極めてラディカルな発想だが、仏教では昔からよく言われていることなのだという。

こうなると、では、真理に近いものは何か、ということになる。合理主義のアンチテーゼとして実存主義があるけども、アンチテーゼである以上は真理になりえない。やっぱり東洋思想を追究しなければならないかなと思う。

2 件のコメント:

  1.  人間の夢や希望は、多くの人に認められたい。安心で安全でありたい。苦しみや悲しみを感じたくない。自分の望む能力において特に優れていたいなど様々ありますが、それらの希望に対して、不満足な現実。つまりそのような現実に身を置かなくてはならない精神や肉体がある時、多くの人にとってその現実は「健常ではない」と認定するに足る現実となってしまうのではないでしょうか。例えば、戦場で多くの人間を積極的に殺さなければ周りから認められないという状態にある人間の「健常なる状態」に対して、相手の家族や故郷の生活が過ってしまい、どうしても引き金を引けないとなれば、それは「病気」なのです。つまり、多様性などと言っても結局人間の許容できるいわゆる「健常者」とは、そのコミュニティにおいて適当な人間であるか否かということに過ぎないのではないでしょうか?

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  2.  追記ですが、服従の心理について検証した有名な実験にミルグラム実験別名アイヒマン実験というものがあります。電流を流すボタンがあり、被験者は別室で簡単な問題を解いているという設定の役者が簡単な問題を間違えるとボタンを押して電流を流すというものです。ほとんどの被験者はだんだんと電圧が上がるにも関わらず、権威者の言葉にしたがって電流をながしつづけたそうです。
     国や集団を変えてもほとんど結果は変わらなかったそうです。

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