1.18.2016

小説と個人

人間はなにかの不幸に見舞われて心身の痛みを感じているときでなければなにかを記述しようとは思わないものだ。

幸福であれば記述する必要はないわけで、シムノンの「著述業とは不幸な天職である」というのは、事実だと思う。創造や表現はまず第一に苦しみから生まれる。満足な人間は雄弁には語らない。言表は、あくまで副次的なものである。

著述家は、まず第一に苦しむのだが、大いに苦しむ人間はまた恍惚のような喜びに浸る権利も持っている。というのも、彼の感覚器官が苦しみに対して過敏であるということは、喜びに対する感覚においても、並の人間が感じうるよりはるかに鮮烈であることを保証するからだ。

苦しむ人間は、ささいなことでつまづき傷つくものだが、それは彼らがその生活のなかで、凡人では気づき得ない事象に驚き、とまどうからである。彼らの不幸は、彼らの知性と表裏一体である。いったい、幸福な人間が賢明である必要があるだろうか。

著述業は、まず大いに苦しむ前提からスタートするから、彼らが成功していざ長年の目標であった安寧へ至ると、今度は職業を失う危機に陥る。彼らが成功し、例えば貧しい生活から脱したり、自尊心を得られるようになると、鋭敏な神経は落ち着いて、ただの凡人へと戻ってしまう。

こうなると著述家は、たいてい決まったパターンに陥る。ひとつは開き直って、駄作を量産し、メディアへの露出を増やすことで、もはや暗い過去を捨て去ってしまう道である。もうひとつは、あくまで創造の道にこだわり、ふたたび不幸の海のなかへ飛び込もうとする道である。それは、近代小説家によくみられるように、激情型な、野放図な、放蕩の生活に落ち込むという、一見不可解な、無意味な痙攣が起きる。具体的には酒・ドラッグ・女に溺れ、最後は自殺という道である。

日本の近代小説とは言うまでもなく「個人」の誕生を象徴としている。それは文明開化によって突如日本に突き付けられた概念であった。その西洋由来の魅力的な概念に多くの人間が惹かれた。近代小説家たちは、すべてこの「個人」の崇拝者だったと言えるだろう。

などと書いていたら時間がなくなったので、仕事へ行く。

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